■ エクレシアの力 / マタイ16:13~19 (2008-10-26)
- chofuminami
- 2008年10月26日
- 読了時間: 2分
「教会」と言う呼び名称は、いわゆるギリシャ語の原語から考えると、あまり相応しくないと思う。 原語では「呼び出された者」とか「召集された集会・集まり」である。 つまり、信者の集まりがエクレシアである。 しかし、信者ではない地域住民と社会環境からは、集会そのもよりも礼拝堂とか教会堂に対しての印象が強過ぎて、実体は余りにも曖昧に認識されてしまった。 そして、カトリック教会などに見られる荘厳な建築物により、教会本来の意味が取り違えられたと思う。 キリスト教会は会堂ではない。キリスト者の集まりである。
ペテロの信仰告白「あなたこそ、生ける神の子、キリストです!」に対して、イエスが彼に返した言葉は、「あなたは血肉によって告白したのではない。天にいます私の父によったのである」であった。 更に、「ペテロよ、わたしはあなたに天国の鍵を与える。その鍵は地上で開くなら、天の国の扉が開かれ、地上で閉じるなら、天国の扉も閉じる」と言われた。
カトリック教会がペテロを使徒の頂点に置いたのは、この場面のイエスの言葉に拠るらしい。 しかし、である。イエスさまはペテロに「神の子」告白を言わしめたのは、天の父であると言われた。つまり、ペテロと言う人間そのものを頂点としたのではなく、告白を導いた神をたたえ、イエスさまをして感嘆の言葉を発するに至ったのである。
私達が間違いやすい点はここにある。 常に称えられるべきは、人間ではない。父と御子、そして聖霊の神である。その神により告白があり、行動がある。神の栄光を人間に帰してはならない。そして、そこには大きな誘惑が潜む。
教会には天国の扉を開けたり閉めたりする鍵がある、などとは殆ど感じていない。 しかし、この箇所の言葉は間違いなくそれを指している。 思い出そう。教会は聖書を通し、罪びとに向かって罪の赦しと救いを宣告する。 バプテスマを施す。主の晩餐を催す。これらは、天国の扉を開ける力によるものである。
教会には天国の扉を開けたり閉めたりする鍵がある、などとは殆ど感じていない。 しかし、この箇所の言葉は間違いなくそれを指している。 思い出そう。教会は聖書を通し、罪びとに向かって罪の赦しと救いを宣告する。 バプテスマを施す。主の晩餐を催す。これらは、天国の扉を開ける力によるものである。
最新記事
すべて表示今年最後の礼拝となった。 教会では幾つかのビジョンを掲げて取組むことが、方向性が更にしっかりして良いと思った。 そこで先ず、「弟子訓練」をあげてみた。 キリストの弟子を目指さずして、クリスチャン信仰の方向性は無い、とさえ思うからだ。弟子としての様々な奉仕と内容はあるが...
クリスマスは、神さまが人間世界に贈り物をされた日を記念して、生まれた日である。 贈り物は赤子の「イエスちゃん」である。 神さまの愛が形になった日だ。 ヨハネの福音書一章は必死にいのちをアピールする。 神は生きておられる!神は存在される!神は物ではない! ...
人間、その心は必ずしも真っ直ぐな人はいない。 正しい人、善良な人は多い。しかし、真っ直ぐではない。 100%真っ直ぐな人間などいない、と思う。 「そんなことはない」と思われる人が仮にいたとするなら、先ず、ご自分を確かめていただきたい。そうすれば、他の人のことも、お分か...
コメント