■ 横たわる現実 / マタイ16:13~23 (2008-11-02)

クリスチャン生活の最大の敵は「この世の現実」である。 どれほど霊的に高められ、聖霊に満たされていても、突然目の前に立ち塞がる現実からは、逃げることは出来ない。この現実の圧倒的な力の前にねじ伏せられ、ペシャンコにされる。 その場所で、己が弱さに出会う。高嶺における祝福の場所から一気に谷底へ落とされる。 この高低の落差が大きいほど、祈りは希薄になり、祈る言葉には神への期待感が薄れてしまう。

現実は横たわっている。思わず、そう思ってしまった日々があった。 「ああ、これが無ければ、どれほど楽だろうか・・」 だが、まるで、それらは私達を待っているかのようである。 実に悪魔は私達の信仰の花咲く前に、いつも蕾を摘み取ってしまうのだ。 又、やっと咲いたと思った瞬間、この世の嵐と風は花びらを散らしてしまうのである。

思わず叫んで祈った。 「ああ、主よ、あなたはこの現実をどう思われるのですか?  ここに一人、あなたを信じる子供であるこの私が、これほど苦しんでいると言うのに、こうも簡単に見捨てられるのですか・・」

ピリポ・カイザリヤ、弟子のペテロがイエスさまに向かって、信仰の告白を叫んだ。 「あなたこそ、生ける神の子、キリストです!」 その直後、イエスはご自身に迫る宿命を告げられた。 「わたしは捕らえられ、拷問され、十字架につけられ、殺され、そして三日目によみがえる。」と。 その時、ペテロは大急ぎでイエスを脇へお連れして、イエスを諌めた。 「主よ、そのようなことがあってはなりません。いいえ、絶対に起こる筈がありません。」 それは実に、つい今しがた、素晴らしい信仰告白をした彼らしい言葉であった。

しかし、イエスの言葉はペテロを驚かせ、ガッカリさせるものだった。 「下がれ、サタン!あなたは神のことを思わず、人のことを思っている!」

この箇所から何を学べるだろう。 信仰者の傲慢だろうか。確信だろうか。神への絶対的な信頼からだろうか。

イエスは私達が生きる現実世界に対して、挑戦状を叩きつけられた、と思った。 それは彼が現実世界(時間の世界)にあって、どの様に生きるべきかを、私達に教えられた瞬間でもあった。 この世に救いをもたらすために、彼は時間の世界(罪と悪が充満する世界)に十字架を打ち立て、時間の世界を掌握している罪を永久的に葬り去るべく、苦しみ死んでくださった。

「信仰をもっていれば大丈夫ですから・・・」 そう、大丈夫なのだが、それ程大丈夫なのではない。そう軽々しく言えるほど、罪は軽くないのだ。 来るべきものは必ず来る。逃げも隠れも出来ない事態もやって来る。 そのために、信仰の道に精出して、主と今を生きよう。 イエスは栄光を捨てて、この世に降りてくださった。 聖霊(助け主)は今日も、この罪の世界で聖徒と共に生きてくださっているではないか。 ゲッセマネの園の祈り、そして十字架の上の叫び、あのイエスの生きざまこそが、信仰は理想を追い求めるものではなく、どろどろになっても離してはならないというメッセージであったのだから。

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