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■ キリスト者は悟るべし / マタイ13章1~23 (2009-01-11)

January 11, 2009

「悟り」、キリスト教には関係ない言葉かと思っていたが、どっこいそうではなかった。
 仏教は悟り、キリスト教は救いだと、仰った方もおられた。しかし、聖書の中に「悟り」と言う表現は相当ある。今日の聖書箇所だけでも5回出てくる。
 「悟り」とは、ある意味、心や思考においての発見であるから、「霊的発見」と考えたら、分かりやすいかも知れない。信仰生活において、悟りは連続してやってくることが少なくない。だが、そこには聖霊の助けと働きが大いにある。仏教的な「悟り」とはやはり異なる。
 

マタイ13章、「種まきのたとえ」が書いてある。
 非常に理解しやすい「たとえ」であるが、それは後半のイエスさまの解説を読んだからである。
イエスが譬えを用いて語られるとき、二つの異なる目的がある。
 一つは天国のことを、この地上のレベルに置き換えて、私達に理解できるように語られている。
もう一面は、イエスさまを信じる人々や、神の国を求める人たち、そしてイエスさまの弟子達だけが理解できる「たとえ」であって、無関心の人、イエスを信じない人々には真理が隠されている「たとえ」もあるということだ。
 確かに、種まきの「たとえ」を前半だけの部分だけで理解せよ、と言われても中々難しいと思う。
 

 何故、一般の人たちに理解出来ないかと言うと、彼らの心、耳と目は生まれながらの人間の状態であって、悟れない、理解できないように、神さまがされているとのことである。
つまり、人間的な努力や知恵によって、神さまの言葉は理解できないようになっているということである。
 

 霊的発見「悟る」力は、神からのものである。しかし、聖霊を受けている人が、この力を受けているかと言うと、そうでもない。心渇いて、主の言葉を聞く者こそ、悟ることが出来るのである。悟るに相応しい者とならねばなるまい。
 

 先ず、イエスを信じること。次に聖書の言葉を聴くこと。そして、主を愛し、愛されている人間となることである。これらのすべては、イエスさまの助けがなくては、如何し様もないが、一番分りやすく言うと、「イエスの弟子」になることであろう。
 私達は何のために聖書を学ぶのか?自分のため、主のため?主のためなどとは、余りにもおこがましい。
キリスト者として、成長するためか?それもある。では、何のために成長するのか?
どうも、堂々巡りに思えてならない。もっと端的で明快なのが良い。
それは「キリストの弟子」になるためである。そうではないだろうか?

 

 

キリストの弟子を目指して歩むことが最も良いと思う。
 目的、方向性、視野が一番はっきりしている。
 女性も男性も、弟子の働き、奉仕の内容、実に様々であるが、先生であり師匠であり、親方であるイエスを見上げ、目をそらさずにいられるとするなら、イエスさまの弟子になれるのである。
 

 弟子としての人生においてこそ、弟子でなければ理解できない話を主はされた。そこに「たとえ」を理解すべく、「悟る」力が与えられれば、信仰生活に更に拍車がかかる。みことばが理解できたり、悟る力が得られたりすれば、確実に信仰生活が楽しく、意味あるものになる。当然である。
 

 今日までの信仰生活に、いまひとつ物足りなさを感じている兄弟姉妹がおられたとするなら、是非キリストの弟子を目指されては如何であろう。この道こそ、人生を賭けて悔いのない道である。この道こそ、あなたが私が生かされる道だと思う。
 「わたしについて来なさい。あなた方を、人間をとる漁師にしてあげよう」(マタイ4:19)
 

 

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