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■ 9割は戻らず帰らず / ルカの福音書17:11~19 (2009-02-08)

25歳で小さい事業を始めた。 可能性無く、信用性無く、あるのは負債と若さだけ。 給料などまともに貰ったことはない。毎月が未払い。社長だから当然であるが。 ようやく事業が波に乗ったかと思ったら、オイルショックが来て、仕事はプッツリ切れた。 工場を辞めれば気持ちは楽でも、負債があるので辞めるに辞められない。 一番苦しかった頃。二年後、遂に一大決心。そうだ、家を建てよう。 破れかぶれ、若さに怖いものはない。裸一貫ではなく、マイナスから這い上がったのだから、失うものなど無い。5年間、奴隷のように働いて来て、これで全てが水の泡では泣いても泣ききれない。最後に自分のしたいことをして、おじゃんになるなら、諦めもつく。土地代は後払い。家も後払いで、見切り発車どころか、線路も無い道に列車を発車させた。

昭和50年、私は30歳で家を建てた。 家庭があり、男性であれば夢を実現した達成感で有頂天にだってなる筈であった。 しかし、家が完成したとき、私の心には空洞があった。虚しいとさえ言える空虚な部分が残っていた。 そして思った。「なんだろう、この感情は?」 しかし、その暗闇の意味は分らなかった。

その三年後、私はキリストを受け入れ、聖書の神を信じた。 別にこの世に不満があったわけではない。困っていたわけでもない。事業もようやく波に乗った時期だった。 だが、そのとき三年前、空虚に感じた部分が消えた。自然と消えたのである。 そして、私は悟った。あの空洞はイエスさまが入られる場所だったと。

ルカの福音書に重い皮膚病を患った10人の男性が登場する。 当時の律法によると、病人は人間社会からは、自らの身に距離を置いて生きなければならなかった。社会情勢は変わっても、似たようなことはつい最近、20世紀末まで日本でも同様であった。 イエスを見つけた病人達は、大声で叫んだ。 「イエスさま~、せんせ~い、どうぞ~憐れんでくださ~い。」 実に悲しい場面である。出来れば、傍に走って行って、跪きお願いしたい。患部に手を置いていただき、祈って欲しいのだ。しかし、現実が赦さない。

イエスは彼らを見て、「行きなさい。そして、自分を祭司に見せなさい。」 聖書は言う。「彼らは行く途中で癒された。」

うち一人は祭司に見せるのも忘れ、神をたたえながら引き返して来て、イエスの前にひれ伏し感謝した。 そのとき、イエスは言った。「10人いたではないか。後の9人はどこにいるのか。」

90%は神の恵みも祝福も理解せず、感謝もせず、日常に帰って行った。 それが、人間世界の常であろうか?そうかも知れない。 だが、この日本は実に99%が誠の神に帰れない、帰らないでいる。 そして、内側に空洞を抱えたままでこの世を去り、永遠に自らを神と切り離し滅んで行く。

イエスはすべての人の心と人生を満たすために、おいでになられた。 心の虚しさが1%であれ、30%であれ、90%であれ、イエスはあなたを満たしてくださる。 生きる希望を100%失ってもイエスは100%の希望を下さる方である。 神とはそういうお方である。

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