■ あなたは本当に自分を愛していますか? / ルカの福音書10章25~37 (2009-03-08)
「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい。」 聖書の機軸となる言葉である。 では、どれほどの人が、心から自分を愛しているのだろうか? 私は本当に自分を愛しているのだろうか? あなたは、心から自分を愛していますか?
自分を愛することと、自分中心に生きることは正反対である。 多くの人が(殆どと言えるかも)自己中心ではないだろうか。 私は自己虫である。実に困ったことだが・・・
私は自己虫であるが、他者の痛みを感じたり、手助けしてあげたい思いはあるのだ。 だが問題は、その後の行動に出られるかどうかだ。 そして、私は自分を愛しているだろうか?と考えると、「愛しています」と 答えられないのが本音である。自分を愛しているのではなく、自我に引きずられているのでは、と思う。ここで、自分を愛することと、自我に振り回されることの微妙で複雑な関係が分らない。
自分を愛せない者は、他者などとても愛せない。当たっていると思う。 自己満足を満たすことは出来ても、他者の身になって思いやることが出来ない。 「私はしたいと思う善ができない」と嘆いたパウロの叫びは、本当は私の叫びである。
自分を愛するとはどういうことなのだろう。 それは、「その様な自分であっても、ありのままを受容すること」と、ウォルター・トロビッシュ先生は言っておられる。 そう、イエスさまが私を、あなたを、そのあるがまま、受け入れて下さったように、受容することである。イエスさまの愛が、私の中で確信できるなら、私は私を愛せる筈だ。
私は元々他者を愛す(受容)力は私の中に無い。実に、無い袖は振れないが如く、他者を愛せない。しかし、神さまの愛をいただくならば、他者を愛せるのだ。与えられたものによって、それを他者へと分かち合うのだ。
「良きサマリヤ人」のお話がある。 律法の専門家はイエスの問いに対し、まっとうな答えをした。 「自分を愛する如く、隣り人を愛せよ。」です・・・。 イエスは彼に言われた。「そのとおり、それを実行しなさい。そうすれば、あなたはいのちを得ます。」 律法家は素直に引き下がれず、思わず言い返した。 「では、私の隣人とは誰ですか?」
そこで、イエスは旅の途中、強盗に襲われ、道端で傷を負って倒れた旅人の例を語られた。 旅人の傍らをレビ人が通り、やがて祭司も通るが、二人とも怪我人を見ると、道の反対側を避けて通って行った。(二人とも神に仕える者であったのに) そこへ、「サマリヤ人」(ユダヤ人が忌み嫌う)がやって来た。 サマリヤ人は怪我人をロバに乗せ、宿屋に連れて行き、介抱をした。更に宿屋の主人に金を渡し、医者を頼んだ、そして、「もしもっと必要なら、帰りがけに支払うから」と伝えた。
イエスは律法家に言われた。 「この三人の中で、誰が隣人になったと思いますか?」 彼は答えた。「怪我人に情けをかけた人です。」 (ここで読者は読み落とさないでいただきたい。律法家は「サマリヤ人です」と言えなかった。彼のユダヤ人としてのプライドがそうさせなかったのだろうか。彼の言葉をもって、聖書は私達の心の裏側に日の光りを投げかけている。)
日常生活、隣人は必ず周囲にいる。 通勤の道、電車の車両、車で行きかう道でいかなる場所で隣人がある。 だが、私が隣人になって行かねば、隣人にはなれない。隣人とは自分と誰かが時間を共有したり偶然に出会う隣人ではなく、関係を創って行くところにおいて隣人となるのだ。 イエスは彼に言われた。「あなたも行って、同じ様にしなさい。」
2001年1月26日、新大久保駅構内で線路に落ちた人を救うために、線路に飛び降りた二人の男性が死んだ。一人は韓国人の青年だった。そして落ちた人も死んだ。 我が身と命の危険をかえりみず、見ず知らずの人のために、考える間もなく、瞬間的に電車が迫る線路に身を投げ出して行った。私達、日本国民のすべてが心をかきむしられた思いをした事故であった。 あの時、殆どの人々は二人を無駄死と感じた人などいなかった筈だ。 この上ない好意と善意、実に勇気ある行動と思った。 そして、あの二人の男性は正に自分を愛していた人達だった。