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■ 宮きよめ / ヨハネの福音書2章13~25 (2009-03-22)

教会の暦では、受難週の月曜日が「宮きよめ」と呼ばれる日にあたる。
エルサレム神殿で商売をしていた人たち、また両替商たちをイエスは怒って蹴散らされた。
およそイエスさまらしくない、と感じてしまう行動であった。
どんな仕事であっても、それで生計を立てているのに・・・とついつい、人間的な温もりの一言でも呟いてみたい、のである。
 過ぎ越しの祭りが迫っていた頃、他国に移住していた多くのユダヤ人も神殿詣でのためにやって来ていたであろう。
 神殿に捧げる動物や鳩を売る人々、それを買うためのユダヤ貨幣との両替商などがいたであろう。
 

しかし、イエスは宮を祈りの場所、礼拝の場所、父(神)の家として見られた。
その場所で商売や金のやり取りがあってはならないのである。
 金銭を中心とする欲の営みが、真実で聖なる神の宮に合致しよう筈がない。
 一を二と入れ替えることはできない、ことを学ばされるのがこの箇所である。
 一はあくまで一であって、どれほどこの世の正論的な理由があろうとノーである。
 

 実に、教会活動、礼拝の姿を思わず反省させられる「宮きよめ」である。
それは当然ながら、クリスチャンの生活、生き方にも及ぶ。
 

 昨今の日本人の生活で、共通した悩みをご存知であろうか?
それは家庭のごみ問題だ。ごみ屋敷問題である。どの家にも押入れ、戸棚、引き出し、物置にどっさりあるのがごみである。別に溜めたわけではない。いつの間にか溜まってしまったのである。
 今では買うことが簡単で、捨てるほうが大変な時代となった。買うよりも捨てる方に金がかかるとさえ、錯覚してしまう程だ。実に宮きよめが必要だ。
 

ついでに自分の心の部屋や戸棚、引き出しを調べてみた。
こちらの方こそ始末するに困った。捨てたいのに捨てようがないものばかり・・・
 ひっぺがそうが決して剥がれない。一度捨てたのに、勝手に戻っている。そして捨てる努力にも疲れた。つくづく、人間の弱さと限界を知らされた。
そして気がついた。「宮きよめ」は自分でやるものではなく、主イエスさまにしてもらうものだと。
 

 

 「聖人」として生きた人達。歴史と時代の中で多くの聖人君子がいた。別にクリスチャンでなくとも沢山いた。だが、人間である限り、彼らの内側は弱さを持っていた。
そこで長い間「聖徒らしく」生きようと思った。そして悟った。「らしく」は無理だと。
 「らしく」生きることは間違っていた。第一、やたらと変なプレッシャーがかかる。そして自分には似合わないことにも気がついた。他者から「らしく、生きなさい」と言われると、妙に腹が立った。
 

そこで「聖徒として生きよう」これだ、と思った。
 考えてみると、パウロの書いた手紙はすべて、各地の主にある聖徒たちへ、とある。
その聖徒たちは、どれもこれも皆、と言ってよいほど弱さを持っていた。
とても、ほめられない聖徒たちも出てくる。
パウロでさえ、自分を使徒と自負しながら、一方では「私は何と惨めな者でしょう」と嘆いている。

 

 誠に聖徒とは、多くの欠けと弱点を持ち、自分で自分の内側など清められないことを知る者であり、キリストにしがみ付いて生きるしかない者達である。
 宮きよめは、イエスさまがして下さるのだから、自分はしっかり引き下がって、イエスに信頼することだ。十字架はそのためであり、聖霊は宮きよめのために、信者の中におられるではないか。私達がなすべきは、主への信頼とへりくだりだけである。
 

 

 

 

 

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