■ 失うことも神の摂理 / マルコの福音書14:1~9 (2009-03-29)
受難週の水曜日、イエスは親しくされていたベタニヤ村のある家族の家に宿泊された。 その家は兄弟姉妹の三人家族であったが、イエスは我が家に帰ったかのよう思われた。 既に十字架が迫っていることをイエスは知っておられ、最後のときをもたれた。 姉妹の下の娘、マリヤは非常に高価な香油を持って来て、その壷を割り、イエスの髪の毛に塗った。芳しいナルドの香油は部屋中に行き渡り、人々の誰もが香りに浸った。
しかし、数人は眉をひそめ、顔を見合わせて言った。 「何という無駄な事をしたのか。この香油を売れば、一年働いても得られないような金になったものを。それに、その金で多くの貧しい人たちを助けられたのに・・・・」 その言葉を聞いて、マリヤは深く傷ついたであろう。確かにそうである。 当時、普通の暮らしよりは裕福だあったかも知れないマリヤの家庭においては、気が回らなかったことでもあったのだろうか。
しかし、イエスは男達をたしなめられた。 「何故、マリヤを困らせるのか。彼女は私の葬りの準備をしたのだ。貧しい人たちは、今からもあなたがたの傍にいつもいるが、私はそうではない。」
マリヤは自分に出来る最高のことを、イエスに捧げた。 無条件、無償の愛だった。見返りなど一切考えずに・・・・
人生は突き詰めれば「得る」ことを目的、宿命としていると思う。 学歴を積み上げ、専門知識を蓄えることは「将来を得る」ためだ。 家庭、財産、名誉、地位、すべて「得る」ためだ。 「得る」ことが悪い、のではない。誰もが、人は自ずとそこに生きているということである。
誰一人、失うことを目的に生きる人などいない筈だ。 そんな人生は光りもない。希望も生き甲斐もないし、チャレンジ精神も生まれない。 しかし、失うことは人生に付き物だ。 健康も失う。財産も失う対象だ。そして、人間関係も同様。命は誰もが、やがては失う。 つまり、「得る」ことを目的の人生であるが、「失う」ことが、絶えず付いて回っているのである。
神は私達に命と体を与え、生きる環境を下さった。 イエスを信じてから、それを知った。 神は「恵み」という概念と実生活の中で、無償で何と多くのものを私達にくださっておられるのだろう。 恵みが欲しいと、願ったわけではなかったのに。
恵みとは甘くもあり、辛くもある。 総じて、神がくださる恩恵と言える。 「得る」ことが祝福なら、恵みは「失う」を含む。 人間は失うことを通して「価値」を知る。 当たり前に存在していたものが、ある日突然失って、初めてその存在の重さや尊さを思い知らされる。 すると、「失う」ということは、決してネガティブな意味だけを持つものではない。 失うことも神の摂理なのだと思う。
マリヤは今の貨幣価値に例えるなら、数百万という非常に高価な香油を惜しげもなく、器ごと砕いてイエスに捧げた。 彼女にとっては、高価であることは別問題であって、その香りこそが、メシヤに最も相応しいと思ったからである。 マリヤの感性の中で、イエスは間もなく、永遠の別れを告げるべく、立ち寄られたことを悟っていた。 そのために、マリヤは自分において最高のものを失うことを、よしとした。 彼女にとって失うことこそ、イエスに対する最高の愛の表現であった。