■ その狭き門があなたを救う / マタイ7章13~14 (2009-04-19)

日本人にとってイエスは実に狭き門である。 日本人は、神々に対しては非常に寛容であるが、「何故、キリストでなければならないのか?」に至ってしまう。明治時代、この日本はやがてキリスト教国になると思われたらしい。それくらい、大勢の日本人が聖書に傾倒していたのであろう。やがて軍国主義国家となるに至ったからか、若しくは「覚めた神学」が入ったからであろうか。わからない。

西武池袋沿線に存在する教会。その教会の礼拝に参加しようと思うなら、一つの狭き門をくぐらねばならない。そして、その門は十字架の形をしている。ひと一人が通れるだけの広さである。実にユニークであり、真理を表現している。 誰かと連れ立って?・・・無理である。色々な荷物を背負って?・・・入れない。 自分が一人だけのスペースしかない。イエスが言われたとおりである。

人はクリスチャンであろうと、自分の門を持っている。 この門の内側にいれば、私は安心である。そして、実に頑固で強固な門である。そんじょそこらでは絶対に誰も入れない。要するに、中にいる私の許可がなければ、誰も入れない。 私としては実に都合の良い、私の門である。 私の門の内側は楽しみも多いが、その分誘惑も多い。そういう領域を私に許しておられる神に感謝しよう。主は、私の自由意志をどれほど尊重してくださっているか、計り知れない。 そして私がイエスとの交りを求めるなら、私は自分の門を出てゆく。 イエスは言われた。 「わたしは門である。誰でもわたしを通って入る者は救われる。その人は門を出入りして牧草を見つける。」(ヨハネ10:9節)

実に嬉しいみ言葉ではないか。 イエスと言う門を入って救われるが、そこを出入りして人生に活路を見出すのである。 教会、家庭、社会、まるでこの門の内外の様である。救われること、そしてその後の私達の営みに対し、神さまは行き届いた配慮をしてくださった。イエスの門の内側にこそ、生きる糧がある、といわれる。

だが、私達は器用な生き物である。 イエスの牧場で草を食みつつ、この世の甘い水も飲む。だが、その様な人生を当たり前の様に生きていると、いつの間にかイエスの狭き門を見失うことがある。礼拝から遠ざかるのは既にその症状であろうか。クリスチャンの交わりが鬱陶しいのは?聖書を開くことが面倒なのは?やけにこの世を愛おしく思えるのは? 実にイエスの門は狭い。いとも簡単に入れると思ったが、いつの間にか別の広い門をくぐっていたとは。

マタイ7章13~14 『狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。』

人生は長いようで短い。思い返せば、どれほどの時間、イエスとの交わりに生きたであろうか? 創造主の恵みに甘んじて生きながら、どれほど天の父に従ったであろうか? やはり広き門は入りやすかった。幾度も引き返しては、狭き門へ戻った。そう、戻れる道があるうちに、イエスの門に戻ろう。やがて、その道が閉ざされる前に。

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