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■ エベン・エゼル、人生と教会 / 第一サムエル記7:1~13 (2009-04-26)

旧約聖書、サムエル記に「エベン・エゼル」と言う言葉が出てくる。 私の好きな箇所だ。 昔、イスラエル人が敵と戦い、ようやく勝利を収めた際に、勝利を記念して石を立てたとき、「主がここまで私達を助けてくださった」という意味から「エベン・エゼル」(助けの石)と名づけた。 実に長く苦しい戦いだった。20年以上前には、決定的な敗戦を余儀なくされた苦い思い出があったから、この時の勝利の美酒は格別なものであったろう。 彼らの言葉から、それを感じることができる。

私達の教会は四月を迎えると、毎年一つ年をとる。今年で24歳になった。 イースターが終え、桜が咲き、総会があり、一年がスタートする。 そして24年前の当時を思い、ここまで主が守ってくださったとして見えない石を置くのが四月である。まさにエベン・エゼルの石である。

この戦いに際し、イスラエルの取った行動が、現代の私達に良い示唆をもたらしている。 先ず、教会がどうあるべきかを教えている。 教会には指導者的な立場の人がおり、又は牧師がいる。 だが、ひとたび指導者とか牧師がいなくなると、突然「蜘蛛の子」になったり、「烏合の衆」になったりすることがある。 キリストを失うことは無い筈だから、ドンと構えて、この時とばかり、今まで培った信仰を働かせ、皆が一つになるには最高のチャンスである。これが「大人の教会」であり、「練達したキリストの教会」でなかろうか。

イスラエルが何をしたか? 彼らは先ず集まって神に対し、悔い改めをしたのである。 サムエルという信仰の導き手の言葉により、今こそ敵から救われるために神に帰ることを選択した。 彼らは断食し、水を注ぐかの様に心を注ぎだし、これまでの間違った信仰を悔いた。神から離れ、目に見える偶像や、モラルを失わせる様な偶像神を捨て、天地創造の神に帰った。

現代、私達クリスチャンは、彼らの様に偶像の神々は誰一人持たない。当然である。 だが、唯一なる誠の神、霊なる主よりも大切な存在は無いし持たないと果たして言いきれるだろうか? 人間の心は実に弱い・・・隙間だらけである。 誘惑にはまってからでは遅いのだが、心の戸締りまでキチンとしているクリスチャンは少ない。律法的になっては困るし、排他的でも困る。 実にイエスさまにしっかり住んでいただこうではないか。これがベストだ。

イスラエルはミツパというところに集まって、サムエルに運命を委ねた。 敵の大群はイスラエルに押し迫っていた。 「ああ、今度も全滅か」と思ったそのとき、イスラエルの民はサムエルに向かって叫んだ。 「私達の神、主に叫ぶのを止めないでください!私達を敵の手から救ってくださるように叫び続けてください!」 この箇所は素晴らしい。それは指導者サムエルの言葉ではなく、民の声だったからだ。 実に教会が牧師に向かって叫んだ如く、であろう。 通常、叫ぶのは牧師であるが、悔い改めた教会の力と結集、信仰の力の凄さがここにあると思う。 神は敵軍に雷鳴を轟かせ、かき乱したのでイスラエルは大勝利を得た、とある。

教会は揺さぶられ、かき回されることがある。 外の敵には強いが、内側の混乱には弱い。悪魔はよく「ご存知」である。それを知らないのは信徒だけか・・・一番残念なことだ。 ならば、仮に牧師がいなければであるが、誰か信頼できる人をリーダーに立て、悔い改めをし、断食して、神の前に一つになろうではないか。 そして民のために祈れるリーダーにより神に助けを求め、叫ばせたらどうか。 これが出来るからこそのキリストの教会であろう。 偶像の神々を身の回りに置き、細々と敵の見張る中で暮らしていたイスラエルでさえ、それが出来たのであるなら、キリストの教会が出来ぬ筈があろうか、と思う。

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