■ イエスに会えば一番は二番になる / マルコの福音書2:1~12 (2009-05-24)

どこででも、誰にでも、いつでも、イエスは伝道された。 そこに人がいれば、群集であろうと、一人であろうと彼は伝道された。 一に伝道、二に伝道であった。 イエスの伝道は罪の赦し、そのものである。

私達がイエスのところに行くときはどんな理由があるだろう? 様々な事情とか、問題の解決に行き詰まって行くなどの場合があるが、イエスご自身に直接に会いたくて行くケースは殆ど無い。 また、父なる神を求めて行く場合はある。しかし、イエスご自身を真っ先に求めて行くことは少ない。

一人の男性は身動きの取れない体であった。 友人たちはイエスのことを伝え聞き、四人で彼をベッドごと運んで来た。 戸口の所まで、びっしりと人で溢れていたため、家に入ることはままならなかった。 四人はベッドごと屋根に押し上げて、イエスのおられる辺りに見当をつけた。 そして、その辺りの屋根をはがして、綱でベッドを吊り下げた。 誠に乱暴であったし、通常は考えられない行動であった。

「イエスは四人の信仰を見て」と聖書は語る。 通常、信仰とは心の中、人間の内側のものと考えるが、それが一度、表面化されるとイエスはどう感じられたか。 実に、イエスは感動されたのである。 彼らは病人の癒しを願うあまり、とんでも無いことをしてしまったからだ。 それはイエスの心を打ち振るわせるほどの感動を与えた。 実に信仰とは、表現される(具現化に)ためにあるのだ、と思った。

そして、イエスはいわれた。 「子よ、あなたの罪は赦された。」 この場面、文語体がいい。 「子よ、汝の罪、赦されたり!」である。 思わず(!)マークを付けたくなるような瞬間だ。

それを聞いて、ム?と四人は考えたか。だが、四人の男の反応を聖書は語らない。 多分であるが、四人の男は反応し兼ねる思いにかられたのではないだろうか。 彼らは病人の癒しが目的であって、罪の赦しなどではないのだ。 だが、即座に反応した男達がいた。それは律法学者達であった。 彼らは心の中で呟いた。 《・・・神お一人のほかに、誰が罪を赦すことが出来ようか・・・》

イエスはその心を見抜いて言われた。 「体の癒しと、罪を赦すことと、いずれが容易いことか。 人の子が罪を赦す権威を与えられていることを、あなた方が知るために。」 そして病人に向かって言われた。 「汝に告ぐ、起きよ!床を取り上げて家に帰れ!」 すると男は起き上がり、直ぐに床を取り上げて帰って行った。 見ていた人々は神をあがめた。

神が人に対して優先されることは、癒しではない。 一番は、罪の赦しである。 私達は祈り会などで、救われていない人のために祈る際、先ずその癒しを祈る場合が多い。 しかし、イエスはそうではない。 イの一番に罪の赦しを宣言された。

イエスの所に行くと、一番は二番になる。そう思った。 クリスチャンになった際の証しを聞くとき、いつもそう思う。 教会にさえ行ったことがなかった人、子供時代から教会に行かなくなっていた人。 こういう人たちが人生の諸問題、病気などを抱え、やがて教会のドアを開ける。 礼拝に通いだす。そして、しばらくしてイエスに出会う。 すると、状況が一変する。見て直ぐに分かるとおり、表情は明るくなった。 だが、依然として問題は横たわっている。 その人に何が起こったのか・ その人はイエスに出会って一番が二番になり、考えも及ばぬことが一番になったのだ。 それは神を知ったこと。神に出会ったこと。 罪を赦されたことだ。 傍目には何も終わってはいないのに、すべてが終わったかのような表情が実に晴れがましい。 そのことの意味をあなたは知っているだろうか?

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