■ 心ほどいて・・・Open your heart / ヨハネの福音書4:15~26 (2009-06-14)

1986年夏、私は主に向かって「主よ、私のことは諦めてください。私は自分が出来ないことが何であるか知っていますから。神さまが望まれるような仕事も出来ないですし、ましてやそういう器ではありません。」と祈った。 それは「牧師になりなさい」という招きをしておられる神さまへの「断りの祈り」だった。

祈り終わった私に向かって、祈った言葉がちょうどピンポン玉の様に跳ね返って来た。 それと同時に聖霊の声を聞いた。 『天と地を造ったこのわたしが、あなたというちっぽけな一人の人間さえも造りかえられないとでも言うのか。』 私は涙を流して悔いて神に謝った。 「いいえ、あなたにはどんなことでもお出来になれます。」 その日から8年後、私は牧師にさせられた・・・なったのではない。ならされたのである。

神のみ手に置かれたなら、変えられない器などない。用いられない器などない。 5人も亭主を変え、今は夫ではない男と住んでいるサマリヤ人の女性をイエスさまは用いられた。何のために・・ スカルというサマリヤ人の町のリバイバルのためにである。

人目を避けるため、日中の暑い時間帯に井戸から水を汲む作業が毎日続いた。 出来ることなら水汲みなど、もう来たくもない。 そう思って今日もやって来たが、井戸の傍にいたユダヤ人のラビらしき男性から、彼女は生けるいのちの水の話を聞いた。 一度飲んだらもう渇かない水。そんな水があるのだろうか・・・

イエスとの会話の延長、彼女は男性遍歴を言い当てられた。 彼女の心がほどけた。 もつれていた彼女の人生と思考の糸は今、ほどけた。

私達の心はいかがであろうか。 人間、生きれば生きるほど、ほどけない毛糸玉が増えて行くように感じてしまう。 「そうする積りはないのに、そうなってしまう・・」 パウロのローマ7章の叫びと嗚咽が言葉が耳にこだまするようだ。 主との関係はいつだって回復するのに、自分との関係、そして他者との関係は直ぐに絡まってしまう。どうして・・・

主の愛によって、神との関係は修復される。 だが、私自身は現実の中でしか生きられないのか。 信仰の世界と現実が合致しないかのようだ。 まるでサマリヤの女性のように。

しかし、覚えよう。 イエスはあの暑い昼下がり、彼女の現実の傍らに立って下さったではないか。 同様に、イエスは私の現実に踏み込んで下さった。 そう、主イエスは既に私の傍らどころか、私の魂を彼の血潮で洗い清められたのである。 信仰は理想の生き方を示すものではない。 モラルを導く目的でもない。 今という、この時間の世界で彼と共に生きる力である。

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