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■ 神がアブラハムを選ばれた / 創世記22章1~14 (2009-07-26)

July 26, 2009

アブラハム、その名はユダヤ教、イスラム教、キリスト教において、実に偉大なる名と存在感を示す。人類の祝福の父であり、信仰の父、祝福の原点である。
この人を、神が選ばれた。
 彼が教祖ではない。
 初めに天と地を造られた神が、彼を選ばれたのである。


アブラハムとて普通の人間である。
しかし、普通でありつつも、並みの人間には真似できないものを持っていた。
だからこそ、神は彼を選ばれたのであろうかと思う。
それは、「ここだ!」という時、アブラハムは命も人生も賭して、主を第一優先したことである。
そして、普通と表現したが、彼とて一人の人間ゆえに、生臭い判断と対応をした。
しかし主は彼と共にあり、いつも彼の失敗の後始末さえもされている。
 

アブラハム、実に神から愛された人である。
 困難と誘惑、危険と飢えは絶えず彼の生きる場所に伴った。
 住む家はテントであり、決まった場所も住まいもなかった。
 彼が現実生活において確実に与えられたのは、家だとか土地ではなく、「神の約束」であった。
 見えない神を見えるが如く生きる。それがアブラハムの生きる世界そのものだった。
 

 妻のサラも年を重ね、既に妊娠の機会は消えていた。
アブラハムも100歳に近く、妻を身籠らせる力は失せていた。
そして私達が、聖書からは感じられることは、以外にもアブラハムの焦燥感と神の約束への不安である。当然である。アブラハムは人間なのである。
 実に「信仰とはこういう世界」なのであろとさえ思わされる。
 人間の心は必ずしも一本の動かぬ立ち木でもなく、そびゆる岩の如くでもない、と私は思う。
 堅く信じる、信じられる日もあれば、風に揺れる葦の如く、不安定な日もある。
だからこそ、確信できることに無上の喜びと尊さがあるのだ。
それは神の臨在の故であるからだ。

 

 彼の人生にも揺れる心の日があり、迷う瞬間は数知れず。
だが、「ここぞ」という時に、アブラハムは必ず神の前に居続けた。
 

 彼の人生の最終章とさえ思えるとき、最大の難問が彼を襲った。
 「あなたの愛する一人子をモリヤの山に連れて行き、そこで全焼の生贄として、わたしにささげなさい。」
 聖書は言う。「彼は翌朝早く、イサクを連れロバに薪を乗せてモリヤの山に向かった。」
 二人はモリヤへの道のりを三日歩いた。
 山が近づいたとき、イサクが聞いた。
 「お父さん、薪はありますが生贄がありません。」
 「イサクよ、生贄は神ご自身が備えてくださる。」
 

 黙々と生贄を燃やす祭壇を組み、イサクを縛って薪の上に寝かす。
ナイフを振りかざすアブラハム。
そして振り下ろそうとした瞬間、主の声があった。
 「アブラハム、わたしを恐れるあなたの心がよくわかった。その子を殺してはならない。」
 

アブラハムは主の声があることを案じながら、薪を並べ、イサクを縛ったのではない。
 案じながらモリヤへの道など歩けようも無い。
 彼はただ一つのことを信じていたのである。
 神は死人の中からでさえ、人をよみがえらすことが出来ることを。ヘブル書11:19
思えば、死に胎でもあったサラから、約束のとおりにイサクをくださったのは神である。無から有を生じさせることが出来るのは、神以外にいない。
 

 私達の人生には初めから有があった。
 「有」の中に行き続けて来た私達が、「無」の中に自分を置くことは、実に恐ろしいことである。だが、信仰とは「有」を信じるのではなく、無の中の有を信じることである。
 神は有の中におられるのではない。
この目には無としか思えなくても、神を見てゆくことこそが有を掴み取って行くのである。
 

 

 

 

 

 

 

 

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