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■ 神さまには神さまのお考えがあるんだよ / マタイ26:14~25、17:1~5 (2009-08-02)

人間、「待つ」ことが好きな人はどれぐらいいるだろうか?

私は待つことは実に苦手であった。 だが、神さまを信じる道においては、やたらと待たされるような気がしてならない。 私にとって忍耐は待つことに対してであるように思う。 祈りの答え、願った結果を待たねばならない。 そうかと思うと、神さまは今、この瞬間にさえ、わざを為し給う方である。 それは「神さまには神さまのお考えがあるから」だと思う。 クリスチャン生活は、せっかちな人を忍耐強い人への変えてしまうと分かった。 せっかちな人には、神の御心など到底待てない。 しかし、待たねばならないのが信仰であるなら、待てる人間に変れるのも神の力である。

イスカリオテのユダ、イエスを銀貨30枚で売った男。 果たして彼は根っからの悪人だったのか・・・?そうではない、と思う。 彼は普通の人間だったと思う。 私個人の印象であるが、ユダはイエスに対し、強い期待を持った男であったろうか。 但し、その期待は彼独自のものであって、神さまの御心に沿うものでは無かった。

ユダはイエスの12弟子に数えられている。 他の弟子達と同じ様にイエスの傍で三年暮らした。 イエスの言葉と不思議なわざは、ユダの期待を益々膨らませていった。 「この方は、きっといつか凄い存在になる。この方に付いて行けばきっと・・・」 私には、その先のユダの思いは分からない。

しかし、ユダの思いに反してイエスの行動は別の方向へ行き始めた。 以前から、違うような方向性は感じることがあったが、ベタニヤ村に入り、過ぎ越しの祭りを数日後に待つ頃になると、完全にユダの思惑から外れていた。 ユダは焦った。「こんな筈ではなかったのに・・」 ユダは腹を決めた。 「そうだ、イエスの不思議な力を嫌でも発揮せねばならないチャンスを作ろう。私がイエスにその時を与えるのだ。」 最後の晩餐を終えてから、彼は役人と兵隊を伴ってやって来ると、イエスに近づいて尊敬の口づけをした。

イエスは捕らえられ、抵抗も言い訳もせず黙って引かれて行った。 ユダの期待は完全打ち砕かれ地に落ちたとき、彼に訪れたのは強烈な良心の咎めであった。 耐えることの出来ない迫りに彼は宮へ走った。ひたすら己を責め続けながら。 そしてユダは銀貨を神殿に投げ込み、そして首を吊った。

「ユダはいわゆる悪人ではなかった」と私が感じたのはそこにある。 彼は普通の人間であった。 そして小心者ではなかっただろうか。 自分の中で勝手な世界を夢を見、それが泡と消えたとき、出来ることは自分を責めることだけだった。 「憐れな男、ユダ」そういう印象だけが残った。

殆どの教会で最後の晩餐を持つ。それは「主の晩餐式」とも言われ、カトリック教会ではミサの度にパンが配られる。 だが、聖書の語る晩餐の場面は、圧倒的に裏切り者のユダに焦点が当てられている。 もう一つの焦点はパンとぶどう酒の意味はイエスが語られた「新しい契約」を象徴するところの、イエスの流された血と裂かれたみ体である。 ユダの表情、態度、そして行動と、イエスの契約へのみことばが最後の晩餐の全体場面であるなら、教会の晩餐式において招かれた私達はユダの同席の意味を無視できない。

自分であっても、場合によってはユダになってしまうだろう。 こういった思いが、心をよぎるのは果たして私だけであろうか。 もしかして、聖書はそれを信者に期待しているのかも知れない。 私はユダと同じ者でしかないのに、今、この晩餐に招かれている不思議と共に、それにも関わらず祝福のパンと葡萄の水を下さる神の慈愛とがすれ違う。

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