top of page

■ キリストの託宣 / コロサイ人への手紙1:24~29 (2009-08-09)

すべての生き物に本能がある。鳥、動物、魚、虫、これらはその本能により生き残る。 神が与え給うた不思議なる本能である。 人の肉眼では見えない微小な生き物さえ、神の知恵がインプットされている。 生き物達に備った知恵は、すべて彼らの子孫への存続に不可欠なものである。 その本能と生態を観察するだけでも、別な何らかの大きな力が彼らに臨んでいることを肯定せずにはいられない。 その方が神である。

自然界が自然に、そして偶然に出発し、時間を経て変化し、進化したという進化論を今も本当に信じている日本人は圧倒的に多い。 この宇宙は自然の力により統率され、数知れぬほど多くの惑星は必要な距離を保って引き合い、そして浮かんでいるのだろうか。 地球と太陽の距離は実に絶妙である。 近すぎたら地球は燃え尽きる。遠すぎたら命は生きられない。気の遠くなる様な太陽との距離であるが、命の存続に必要な距離の誤差は実に微妙な範囲内に納まっている。 その距離や地球の角度が不思議に整えられ、地球全体が命の営みを守り、美しい四季がある。 この太陽系でさえ、ある力の存在を認めざるを得ない。 その方が神である。

それでは人間の本能は?そう、自己中心的生き方、考え方である。 まさか、と思う。しかし、残念にも本能となってしまったようである。 元来は本能ではなかったが、本能にとって変わってしまったとしか言えない。

神は人間に知恵や力、創造力や感情を与えられた。 生きるための知恵だけでなく、人間独自の霊性を与えられた。 神の霊性の一部が人間に吹き込まれたのである。 本来、そのままで行けば良かったのだが・・・ 霊性は創造主をたたえ、神に感謝し、信仰心や他者への労わりへと働く。 しかし、人間の霊性は突如介入いてきた罪の力に対しては、無防備であった。

クリスチャンの歩みで気がついたことは、人は神の臨在と祝福を意識せずして、心から喜びの人生を送ることは出来ないということである。 お金も必要。しかし、お金は幸せの原点ではない。場合によって金は人の命を奪う。 健康も永遠ではない。殆どの人は、どれほど長くても60年から80年の間で死んでゆく。 ここにも永遠は無い。人生と喜びには常に限界があることを知らされるだけだ。 旧約の「伝道者の書」が人の儚さを語るとうりだ。

しかし、神が共におられるなら、どれほど苦しい人生であろうと、人は生きられる。 キリストが共におられるなら、闇も死も恐怖ではない。 大いなる力の主、唯一の神、その方にあっては、この地球でさえ主の足の台座に過ぎない。 この偉大なるかたをたたえよう。賛美しよう。 私達のためにこの世に来られたイエス・キリストをたたえよう。 死んでよみがえられた主をたたえよう。

クリスチャンは主をたたえることにより、感謝と喜びが溢れる。 だが、その方を見失うと突然に目の前の現実、つまりキリストを拒み、世の力と常識が迫ってくる。そこにあるのは明日にさえ希望のない人生である。

十字架に帰ろう。そこにだけ永遠の希望があるからだ。 キリストの十字架が私達に残したことがある。 パウロはそれを「キリストの苦しみの欠けたところ」と言った。 教会はその欠けを満たすべく存在する。 キリストが為し得なかったことではなく、私達に委ねられたことである。 それはキリストの福音を人々に伝えること。 そして救われた人々をキリストにある成人として建て挙げることである。

自然の流れにまかせておいて、この事業は為し得ない。 ここでいう自然とは、放っておくことである。 生まれたばかりの神の子供たちを放っておいて、やがてキリストの素晴らしい弟子になる筈が無い。 その作業は、聖霊とあなたの共同作業であることを覚えよう。 見えない力を信じるなら、あなたはキリストの託宣を受ける。

最新記事
アーカイブ
タグから検索
ソーシャルメディア
  • Facebook Basic Square
  • Twitter Basic Square
  • Google+ Basic Square
bottom of page