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■ 嵐の中で平安を知る / 第一ペテロ1:1~4 (2009-08-30)

台風の中に平安があるだろうか。 ハリケーンの真中に平安があるのだろうか。

現実の天災はともかくとして、人生にも嵐は来る。 特にそれらは突然やってくる。 思いがけない出来事、突如襲う悲しみ、苦しみ、不条理にしか思えない出来事は、いとも簡単に私達を打砕く。 人生のプランが根こそぎ、持って行かれるような事態もある。 人はその場に崩れ落ち、一体私の人生は何だったのだろうか、と嘆かずにいられない。 今日が幾ら素晴らしい天気であっても、まったく関係ない世界になってしまう。

そのとき、思わず呟く。 「・・神は本当におられるのだろうか・・」 そう、神はおられる。 神は永遠に生きておられるのだ。

受け入れらない現実の中で、果たして私達に希望の灯りあるのだろうか。 「ある!」と、聖書は言う。神の宣言である。 どこにある?のではなく、今、この場にあるのだ。

旧約聖書ナホム書は「主の道はつむじ風と嵐の中にある」と語り、また福音書でイエスと弟子達が嵐の湖で乗っていた小舟は木の葉の如く、波と風に翻弄されていたが、彼らの主は眠っておられた。

主のおられるところに嵐が来るのではなく、嵐が来ようが竜巻が来ようが、その真っ只中の、その場所にイエスが臨在しておられるのだ。 私達に見えるのは荒れ狂う嵐の凄まじさだけであって、平安のイエスが見えないだけである。

1900年前、現在のトルコ地方はキリストの教えがあちこちに点在していた。 その要因たるものは、ユダヤを追われたキリスト者達の伝道であった。 トルコは彼らの避難先であり、寄留地であった。 だが、彼らを待っていたものは、生活苦や社会的環境の違い、そして信仰の基盤が揺るがされるような様々な試練であった。

ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジア、ビテニヤといった地方に散在するクリスチャン達への励ましのために書かれたのがペテロの手紙である。 「あなた方は神により、あらかじめ知られ選ばれた者、御霊とキリストの血によってきよめられた者である。だから、今がどれほど苦しくても、永遠の救いと御国を失わなわずにいなさい。」と手紙の冒頭に書いた。

試練がキリスト者を育てる、と思う。 誰だって試練は歓迎できないが、後になって知ることは、自分は試練に鍛えられ、訓練され、育てられたということである。 クリスチャンは試練の意味とそれをもたらされた方を知っている。 特に教会生活は私達を主に留まらせ、養い、信仰への意欲を守り育てる。 水も食べ物も、文化も人々も考え方も異なろうとも、イエスはここにおられる。 仮に太陽が昇らずとも、星が見えなくとも、神はあなたの隣におられる。

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