■ この現実だからこそ神をたたえる / 使徒の働き16章16~34 (2009-08-16)

原始キリスト教会が歩み始めた頃、つまりキリストの弟子達、そしてパウロたちが地中海沿いに、ローマに向かって伝道していた頃、伝道そのものは実に悲喜こもごもの道であった。 伝道すれば当然救われる人々が起こされる。と、同時に迫害がやって来る。 これらの出来事は対極のものであったにせよ、まるでセットであるかの様だった。

異邦人伝道はパウロに科せられた使命であった。 幾度、宣教を辞めたいと思ったことであろうか。 しかし、彼は宣教の実を思うとき、辞められなかった。そこに救われていない魂があれば、彼はキリストを語った。 そして迫害が彼を襲ったのである。 それでも彼は言った。 「いつでも喜んでいなさい。すべてのことについて、神に感謝しなさい。」と。 それは厳しい今だからこそ、神をたたえなさい、である。

パウロとシラスが裸にされて鞭打たれ、牢に閉じ込められ、足かせをはめられた夜。 彼らは何をしたか? 不平不満を主に向かって愚痴ったか? そうではない。 彼らは神に向かって賛美の歌を歌い、神に祈った、とある。 今この時を感謝したのである。

この場面、どう考えても神に感謝する気持ちが分からない。 あの状況、意地で賛美したとも思えない。 やけくそで歌ったとしても、奇跡など起きない。 しかし、もし神が彼らに賛美の唇と思いを与えられたとしたら・・・納得できる、のだ。 そうとしか思えない。 そう、それを求めよう。心から求めるなら、きっと神はこの唇と舌にだって歌をくださる。 そのとき、彼らの足かせと鎖も解けて落ち、牢の扉は開いた!

平和で自由な今の日本に住んでいては、想像できない世界であるが、今も世界のどこかの国においは、キリストを宣教すれば命に関わることであるのも事実である。

人生には様々な事態が訪れる。それも突然に・・ また、キリストを語らずとも、試練はやってくる。 普通に生きていても困難は訪れる。 試練には必ず意味があるが、乗り越えるまで意味が分からないことが殆どである。 第一、試練の意味を考えていたら乗り越えることは出来ない。 ただ「神さまが私を子として扱っておられ、私が成長するために訓練されている」ことを信じることだけが必要である、と思う。

楽しい現実だけに生きるだけなら、信仰など無くても生きられる。 信仰の働きどころも無いであろう。 だが、厳しい現実を突きつけられたら、途端に信仰の真価を問われる。 無いと思っていた信仰が働き出したり、有ると思っていた信仰が消えてしまったりもする。 そして簡単に凹んでり、転んでしまうことだってある。 起き上がれそうにも無い時だってある。 しかし、それさえもキリスト者として大人になるためのプロセスの一つである。 その一つに過ぎないことを覚えよう。 誰だって、そういうプロセスを通って大人になって行くのだから。

目の前にいかなる現実を突きつけられても、神をたたえることが出来たら何と素晴らしいことか、と思う。 想像を絶する試練は、明日にもやって来るかも知れないのがこの世である。 今日が順風だから明日も同じとは限らない。明日はハリケーンが来るやも知れぬ。 人生の明日を読める人などいない。 まさに明日は明日が心配してくれるとしか言えない。 そこで主に祈り求めるべきことが一つある。 それは、どんな現実がやって来ようと、その時も変わらず神さまをたたえる歌と賛美する心を私に下さいと、いうことである。

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