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■ 私に有るものをあげよう / 使徒の働き3:1~10 (2009-08-23)

August 23, 2009

ある午後、ペテロとヨハネは祈るため神殿に詣でた。
 「美しの門」にさしかかったとき、そこに一人の生まれつき足の不自由な男がいた。
 彼は人々から、哀れみの何がしかを貰って、生きて行くしか道はなかった。
 聖書は彼のことを「そこに置かれていた」と語る。
まるで物か動物の様な表現であるが、事実であった。
 彼は自分の足でそこに行ったわけではない。
 誰かに運んでもらい、置いて貰っていたのである。
 

 男は宮に入って行く人々の顔を見つめている。
 目が合えば、お金を乞えるからである。
ペテロとヨハネが通りかかった。男と目があった。
 男の目が哀れみの表情を現す前に、ペテロとヨハネは彼を見つめて言った。
 「金銀は私には無い。だが、私に有るものをあげよう。ナザレのイエスの名によって歩け!」
ペテロが彼の手を取って立たせると、男の足とくるぶしは強くなり、真っ直ぐに立つと歩いたり、はねたり、しながら神を賛美しつつ、一緒に宮に入って行った。
 

それは実に瞬時の出来事だった。
 男に考える時間など無かった。
ナザレのイエスを想像する間もなかった。
ただ、ペテロの確信に満ちた信仰の叫びであった。
 

 私達にはこの様なことは出来ないかも知れない。
つまり、生まれつき足の立てない人を立たせることが、である。
だが、大事なことはその直前にペテロが言った言葉「私に有るものをあげよう」である。
 

 私達はキリストからいただいた信仰を持っている。
しかし、ペテロ達のように「あげられる何か」を持っているだろうか?
 元々無いからあげられないのか。そうかも知れない。
だが、持っているけど「あげない」場合もある。
それとも「あまりに貧し過ぎて、恥ずかしいからあげられない」のか。
 無いならイエスさまに頼めばよい。主はきっと下さるからだ。
だが信仰は持っていたとしても実際、あげる心が果たしてあるのだろうか。
う~ん、分からない・・・
 

 この世には使っても、使っても減らないものがある。
 減らないどころか、どんどん増し加わるから不思議である。
 一体、それは何だろう?と考えて見た。
どうも一つしかない。
それは信仰である。信仰だけは使えば使うほどに増し加わるのだ。
つまり、神への信頼が増し加わる。
 体験が重なり、神を更に知る。そして更に信仰を働かせる。
と、言うことは使わなければ薄れてゆく。当然である。

 

神さまは人間を良く知っておられる。
 信仰を働かせる、ということにおいて、その適所は試練である。困難である。苦しみである。殆ど歓迎できない人生の場面である。
だが、味方を変えて考えると、これらは決してネガティブなものだけではない。
 私達が神への信仰と信頼を働かすべく、与えられるテストの場所だからである。
 

 厳しい場面ほど、私達は神により頼む。
すると、初めかは左程無かった信仰も働かせざるを得ない。
 薄れかかっていた信仰にも頼らざるを得ない。
 摂理、とはキリスト世界の専門用語か、とさえ思う。
 神の摂理、人間には中々分かり難いものだが、やがて後、人はそれをしみじみと味わうのである。
だから、神に留まることは良い。
 

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