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■ 救いの力 / 第一ペテロ1:8~9 (2009-09-13)

September 13, 2009

イエス・キリストは一つの魂のために、神から遣わされ十字架に架けられ、そしてよみがえられた。
 確かに人類すべてのためであるが、ミクロのレベルにまで彼は降りてくださった。
 故に、私達は1対1でイエスに向かえ会えたのである。
 神は実にその一人子を失ってまでして、一つのたましいにこだわって下さったのである。
 

 一つのたましい、それは一人の人間の全存在であり、その一つの命を象徴する。
そしてたましいは一人の内なるすべてをも表象する。
このたましいが救われるということは、非常に凄いことなのである。
なぜなら、そこに神の力が及び、働き、完成したからである。
 

 救いとは、私そのものが、やがて入れるであろう神の国へのビサが発給されたということである。
 十字架の赦しはすべてのたましいに向かって、神から差し向けられたものである。
だが、当人が「ありがとう、いただきます。」と言って受け取らねば、その効力は彼にとって全く無意味となる。
 

 十字架の赦しは無代価、無差別である。
よく言われることだが「私は選ばれた者である」と解釈がされる。しかし、結果として選ばれた者であって、世の中に選ばれない者がいる、という解釈は踏み込み過ぎである。
 確かにイエスさまはおっしゃった。(ヨハネ15:16節)
 「あなた方がわたしを選んだのではなく、わたしがあなた方を選び、あなた方を任命したのです。」
とても嬉しく、畏れ多いことばである。
そこで人間心理から考えると「選ばれる者がいて、選ばれない者がいる」と結論を出したいのであろうが、十字架は決して人を選別しない。
 弟子としての召命の言葉として語られたものと、十字架による救いの対象者に語られたものと一緒にすべきではない。
 

ペテロは三年間、イエスの一番傍にいて、イエスを見つめ、イエスに聞き、イエスに触れた。だが!ペテロはイエスを否定した。
 「あなたのためなら一緒に死にます。」とまでペテロは断言し、そして他の弟子達も追随したが、弟子たちのすべてが、結果的にイエスを否定した。
 

そしてそれから十数年後・・・
 イエスを否定することにあっては先頭を切ったペテロであったが、今、よその国に非難寄留している、イエスを見たことも無いクリスチャンたちに向かって心を込めて言った。
 「あなたがたはイエスを見たこともないが愛しており、いま見てはいないが信じており、言葉に尽くすことの出来ない、栄えに満ちた喜びに踊っています。
これは、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。」第一ペテロ1:8~9
 

これが救いの力、である。
 生きる生活で、生の場所で、救いの喜びが手に取って見える。
 暮らしぶりは逆境の淵であろうと、救われた喜びに浸る生き様を見ると何物にも変えがたいものがあった。それは救われた結果である。
ペテロはその人々を見て、不思議に思えたであろう。
そして、ペテロは知った。
 見えるところで生きないで、見えない方を見ながら生きる信仰の素晴らしさを。
それは常に前向きで、能動的でポジティブである。
 

 

 

 

 

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