■ 賜物を得よ / 第一ペテロ1:20~21 (2009-10-11)

ペテロ第1の手紙1章は25節からなっている。 この中で21回登場する言葉がある。 それは「あなた方」という表現である。 現在のトルコ地方に散らされ信仰に入って間もないクリスチャン達に対し、必死に呼びかけるペテロの熱い叫びが伝わって来る。 その「あなたがた」は同時に、現代に生きる私達に向かって語られている。 ここに「神の言葉は生きていて力ある」ものとなる。 なぜなら、聖霊が取り次いで私達に聞かせておられるからである。

どれほど素晴らしいストーリーであっても、聖書以外のものに聖霊は働いておられない。 感動は覚えても、神のみ声ではない。 神はクリスチャンでな、神ご自身の前に呼び出される。

31年前、主は創世記の文章を通して、耳も心も完全に塞がれていた開かれない私に囁かれた。 そしてアブラハムの信仰が私を捉えた。 神は私に問われた。「さあ、あなたはアブラハムをどう思う?」 更に言われた。「あなたは、わたしを知っているか?」 その晩、私はこの方を神とした。それは当時の私の精一杯であったが、私の全てであった。

私達は自分や他者を見て、信仰の姿勢を色々勝手に言うことがある。 篤い、熱い、薄っぺら、固い、弱い、等々。 しかし、信仰は神が下さったものである。神が基準、基本であり、十字架とよみがえりを通して、私達人間に与え給うたものである。 つまり、色々感じるのは自由であるが、神と共存共有する世界を人間の言葉で簡単に表現すべきではないと、私は思った。 ペテロは書いている。1:21節「あなた方の信仰と希望は神にかかっている。」

生まれて間もないクリスチャン達はどう生きるべきか。 主を信じ、主に従う道がどうしたら拡大して行くだろうか。 それは神がくださった「賜物」の発見に至ることであると思う。 生まれ持った才能やタレントではなく、聖霊の助けによって開かれる「神からの贈り物」である。 その内容は第一コリントの手紙12章に書いてある。

賜物は神さまの御手によるところの鋤と鍬が掘り起こす、と私は思う。 自分の努力や修練ではない。神によって私の中から掘り起こされるのである。 賜物は私達を更に神に近づける。 そして賜物を通して私達は用いられる。 結果、そこに現れる神の栄光とみわざは、決して私個人に帰さない。 すべて教会の益、他者の益となる。だから神の賜物である。

神に変えられること恐れていた。 自分の願いと違った方向に行くことを恐れていた。 イエスを主と呼ぶことが出来なかった。 「主よ、私を助けてください。」と祈れなかった。 生まれながらの人間嫌いな性格、人前で話すこと、人々と群れることが大嫌いであった。 そんな私が牧師にさせられて、やがて16年を迎える。 神の賜物と聖霊の助け、主なるイエス・キリストの臨在によって、私は人間が好きになった。

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