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■ もしイエスが生まれてなかったら・・・・ / ルカの福音書2章11節 (2009-11-22)

November 22, 2009

季節が巡り来れば、当然の如くクリスマスが来る。
 一年が終わりに差し掛かる時は、人は何となく不思議な感情に浸れる時でもあるのは不思議だ。
 長い様に感じていた一年は実に短くもあり、しかし過ぎ去った春にも夏にも沢山の思い出が見え隠れする。
 世界中の人間がクリスマスを共有する中で、自然と様々な思いに浸る。
 家族愛、愛する人、友達、故郷、昔の思い出、厳しい寒さに耐える自然界と冬ならではの雪景色。
この時期、一年で最もロマンチックで感傷的な気分の訪れがある。

 

もし、クリスマスが来なかったら?と考えた人は、先ずおられないと思う。
 当然の如く、100%クリスマスは来るのだから。
 今から100年以上昔になるかと思いますが、一枚のクリスマスカードが出版された。
 題名は、「もし、クリスマスが来なかったら」ではなく、『もしキリストが生まれなかったら』でした。
しかし、キリストが生まれたので、クリスマスがあるのだから、双方は同一のものである。
それをご紹介したい。
 

 『荒野の泉』より
牧師が家中を見回したが、暖炉の上には一足の靴下も無く、ヒイラギの枝、クリスマス・リースも消えていた。彼は屋外に出て街を歩いたが、天をさしてそびえ立った尖塔を持つ教会堂も無かった。
 彼は家に帰って書斎に腰を下ろしたが、キリストに関するあらゆる書籍は失せていた。
まるで異次元の場所に思えたが、間違いなく彼の部屋、彼の家、彼の住む街であった。
 

ドアのベルが鳴って、一人の貧しい身なりの少年が泣きじゃくりながら立っている。
 彼の母が死に掛かっており、どうか訪問して欲しいとのことだった。
 牧師は少年と一緒に急いでその家に向かい、ドアを開けた。
まだ年若い母親であったが、既に衰えており、死期が迫っていることは如実であった。
 牧師は聖書を開きながら、「あなたの慰めのために、私はここにいますよ。」と彼女に伝えた。
しかし聖書はマラキ書で終わっており、その次に在る筈のマタイの福音書を初めとする全ての新約聖書は消えていた。
もはや希望も約束もなく、牧師はただ頭を垂れて絶望のどん底にある母の傍で泣くばかりであった。
 

 二日の後、牧師は彼女の棺の傍に立って葬儀と埋葬を司ったが、そこに慰めのメッセージも、栄光あるキリストの復活も、開かれた天もなかった。
ただあるものは「塵は塵に、灰は灰に」ということと、永遠の訣別だけであった。
 牧師は遂に「キリストは来なかった」ことを認め、墓土に手をついて泣いた。

 

そのとき、どこからか彼の耳元に聖歌隊の歌声が聞こえた。
 「おお なんじ忠信なる者よ 歓喜と勝利をもて来たれ
 おお 汝ら来たれベツレヘムに来たれ
来たりて天使達の王として生まれ給いし お方を見よ
 いざ 我らの主なるキリストを拝しまつらん」
 

その歌声は近くにある教会から聞こえたものであった。
 悲しい出来事は、束の間に見た牧師室での夢であった。
しかし、今や聖歌隊の歌声に合わせて、牧師の唇からは、讃美と勝利の大いなる歌声が発せられた。

 

クリスマスは来るべきものとして来たのである。
 起こるべくして起こった事である。
それは遥かに遠い昔に神が下さった約束であった。
だが、私達は当然の如くに「そのとき」を過ごすべきではないと思う。
それは、余りにも辛く悲しいことのスタートであり、同時に言葉で表現出来ない歓喜が凝縮されていた、世界で初めてのクリスマスだからである。
 

 人は生きるために生まれる。
 死ぬために生まれる人など、一人もいない。
 否、一人の方だけは違った。彼は死ぬためにお生まれになった。
それも苦しめられ、むち打たれ、十字架に釘で打ち付けられ、重罪人として群集に嘲笑と罵声の中で死んだ。
 

しかし、知恵ある人は心すべきである。
 神の約束が世界の草創期に告げられているからだ。
しかも、人間に向けてではない。サタンである蛇に言われた約束としてである。
 『わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」 創世記3:15
 

世界で初めてのクリスマスは次の様であったと思う。
 赤子の両親は期待や喜びよりも、未知への不安でいっぱいであった。
 神に選ばれた若い母は、未だ少女の域を抜けていない様な可憐な娘であった。
 彼女の許婚は貧しくとも誠実と道徳を信条とし、神と律法と従う人であった。
だが彼ら二人に起こった不思議に対し、理解が得られる教えも知識も地上に存在しなかった。
 前向きに生きる彼らへの助けは、夢で語られた神の約束とそれを信じる信仰だけであった。
そして寒い晩、家畜の匂いと藁のベッドが、生まれたばかりの聖なる赤子を受け止めた。
その子を見たとき、両親は生まれて初めての不思議な平安に浸ったのである。
 最初のクリスマスはこの様な背景と現実の中で、もたらされたのである。
そして、私達もこの世で二つと類を見ない不思議な平安と喜び、そして感謝に浸る。
 「主よ、来たりませ」これが今の私達の祈りである。
 遠い二千年前のクリスマスは、確実に2009年のクリスマスである。
 

 

 

 

 

 

 

 

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