■ 不条理の地に恵みの花が咲く / 第一ペテロ2:13~17 (2009-11-29)

道理に適わないことを「不条理」という。 納得が行かない事件や出来事が多すぎる昨今の人間社会である。 残酷非道な仕打ちを受けて殺された人たちと、その両親家族のことを考えると、慰めに掛ける言葉など到底見つかるものではない。 旧約聖書の世界にもそういった場面が多く登場する。 所詮、人間世界と言う場所は、不条理な世界である。 しかし、それでも・・否、それだからこそ、神を信じることが必要なのだと思う。 「目には目を」の道理ではなく、目であろうと歯であろうと、先ず神にゆだねることが十字架の愛なのだから。 しかし、当事者にしてみれば、腹わたが飛び出すのを辛うじて抑える位の忍耐力を要することだと思う。

不条理の地にも、やがて恵みの花は咲くのか? と言われれば、「咲く!」と答える以外に適当な答えはない。 私達はそういう人間性を持つべく、神の言葉、聖書に親しんでいるのである。 右の頬を打たれたら、左の頬を出すくらいの広い心と信仰を持ちたい。 相手の頬を張り返したら気は済むだろうが、だからと言ってどうなるだろう。 人間は生きものではあっても、動物ではない。 獣の世界で生きることの方が容易いが、人には人の生きるべき世界があり、増してや人には信じる神がおられるではないか。

星野富広さんの画と言葉が疲れて荒れた心を癒す。 『木にある時は枝にゆだね 枝を離れれば 風にまかせ 地に落ちれば 土と眠る 神さまにゆだねた人生なら 一番美しくなって 散れるだろう』

シャカリキになって生きる時もあるだろう。しかし、それがいつまでも続くわけでもない。 人間は人間の弱さと限りあることを悟ることが、より人間らしく生きられる。 頑張って命を守っているわけではない。 頑張って家族を守っているわけでもない。 今と命を守っておられる神を認めなければ、生かされていることなど知る由もない。 結局、人間も葉っぱの様な立場ではないだろうか。

ペテロの手紙は異邦人世界に身を置き、その世界でどうやって生きるべきかに迷っていた当時のキリスト者に対し、適切で信仰に適ったアドバイスを送っている。 「たとい、今がいかなる状況下と環境下に置かれたにせよ、『主のゆえに』その地、その国の支配者と法律に従い、良き見本として生きなさい。」とある。

私はふと考えた。 納得と信仰は別物である、と。 納得だけを優先していたら、信仰の働く機会など無いし、信仰は伴わない。 しかし、信仰を最優先したら、納得は必ず後からついて来る。 不条理の地に恵みの花が咲くのを見るのは、果たして誰であろうか? 先ず神に納得して生きる者である。

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