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■ 信じること、それがすべてである / ヨブ記2:1~10 (2010-01-17)

一般の人生だけでなく、クリスチャン人生にも限りなく試練は訪れる。 試練によって人は鍛えられ成長もする。 しかし、これまでに大きな試練に出会っていない人は、今だからこそ出来ることがある。 それは試練に耐えうる信仰を築くことである。

人生だけでなく、信仰生活にも生き残りが掛かっていると思う。 それはサバイバル競争とも言える。 どれほど、しっかりした信仰の人であろうと、死ぬまで確たる信仰を持ち続けられる人などいない。ひたすら、神の助けをいただいて行かなければ、とても持ち堪えられない。 今日ある信仰が明日も続く保障など一つもない。 この世において、100%の確立対象など存在しない。

人間とは不安定な生き物である。 各も容易く他者に失望し、自分に失望する。 教会に失望し、やがて神に失望する。そして信仰を失い、教会から離れる。 本当にキリストにしがみついていないと、いつの間にか遠く離れてしまっている。 キリストの傍に居る自分は分かっても、離れて行く自分は分からないものだ。だから怖い。

日本人は曖昧を好む。好むというより、捨てきれない、離れられない思考経路だと思う。 クリスチャンになっても曖昧さから抜けきれないでいる自分がいる。 つまり、曖昧は自分の中で神がハッキリしていないことにも繋がる。 神がハッキリしないと、自分の居場所が明確ではない。 神を信じて自分の居場所(存在する場所と意味)が分かったのだから、それは当然であろう。 すると、立つべきところが分からない。 十字架と自分の関係がぼやける。 と、なれば十字架と主のよみがえり、復活の力などが信仰生活に及んで来ない。 曖昧とは、当初は安心材料の一つかも知れないが、やがては命取りにさえ為ることを覚えよう。

神を信じる。 このことさえ当初は難しいことだった。 しかし、踏み出してみれば左程の難しさなど、あまり感じなかった。 やがて「信じる」ことの深さを嫌でも知る様になる。 信じるだけなら、爪の先ほどでも出来だろう。 だが、その程度なら「鰯の頭信仰」ほどでしかない。 本当に信じるとは、神に降参することである。 「自分なりの」などと言っていては、何を信じたか眉唾であろう。 しかし、唯一なる神はなんと大らかで寛容な方であろうか。 鰯の頭程度の信仰であっても、「わたしは決してあなたを捨てない。」とさえ言ってくださる。

守られた平安の日々の中で、神を称えることは簡単であろう。 しかし嵐と竜巻の真っ只中に置かれた様な人生で神を称えることは、人間の力では不可能だ。神が隣に居て下さらなければ・・・

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