■ 人とはいったい何様でしょう / ヨブ記9:15~21 (2010-01-31)

欧米のクリスチャン両親が、その子供達に命名する際、聖書からやはり意味ある名前を考えた。当然である。この子には幸せになって欲しい。勇気ある信仰者に育って欲しいと思うからだ。 だから、正しい人であり、そして有名であるが、兄に殺されたアベルの名など先ず聞かない。 また、非常な試練を背負ったヨブという名も、これまで出会ったことはない。 だが、ヨブは素晴らしい信仰者であると私は思う。 人間味のある実に尊敬すべき人物であった。ただ、人々は彼の背負った試練を息子に願わなかっただけである。

ヨブ記は最初の数章と最後の章以外は、問答集である。 だが、あの長く暗い悶々とした時間に討論された経緯が無ければ、ヨブ記の深みは伝わって来ない。 あそこにこそ、人間の果てしない悩みと限界、そして、どうにもならない理想論が混濁しているように思う。かと言って、単なる空論でもない。真剣に心を裸にして、傷ついたヨブへの浮ついた見舞いの言葉などではなく、傷に塩を塗りこむとしか思えない、厳しい言葉が飛び交った。 神さまが介入された38章までそれは続いた。

だが、「この世に神おわします」故に、合計39章という長さも決して無駄ではないのである。 ヘブル人と思えない人たちの本音と人間観、神を考える思いが語られている。

クリスチャンになって30年、つくづく思うことがある。 それは「1+1=2」にならぬことが多々ある、ということだ。 ときどき、「ゼロになるのかも」とさえ感じる。 何故、そう思ったのだろう。 それは祈る、からかも知れない。神さまの答えを待てないからかも知れない。 不思議な世界でもある。 だが、「1+1=5」になることもある。考え方によっては10にもなる。 思わず笑ってしまうほどである。 だが、これを体験したクリスチャン、特に牧師達が少なくないと思う。 神はやはり生きて働いておられるのだ。エイメン!

考えてみるとヨブの人生は1+2=5であり、8でもあり、10にもなった。 何と、それが晩年まで継続したのである。 だが、ある日、マイナス100になった! 何故か?分からない。これがヨブ記3章から延々と続く会話記録である。

会話記録から学べることがある。 それは、私達は神を弁護することも、弁護する意味もない。 それは、私達こそ、神さまに弁護してもらう者に過ぎないからだ。 人間とはいったい何様だろうか、と思った次第である。 だから、信仰は頭でやってはダメだ。 信仰は心だ。 キリストと生きるは頭で無く、心である。 頭の良い人は、ついつい頭で信じてしまう。 だが、頭を使うのは、あくまで理解するためである。 頭で信仰をやっていると、成長しないどころか、いつか空っぽにされる。 イエスさまは時々、ガーンとやってくれる時がある。 頭の弱い私など、つくづく脳の足りないことを感謝している。 今、神を信じていることさえ、神さまの圧倒的な支えによることを知らされる。

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