ヨブの新生 / ヨブ記42:1~6 (2010-03-21)

長かったヨブの苦しみにも遂に光りが差すときが来た。 だが、彼が執拗に求めた苦しみの意味に対する明快な答えは、もたらされなかった。 しかし、ヨブが求めた百倍の価値ある答えが与えられた。 ヨブの言葉を聞くとき、私たちは理解できるのだ。

『あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。 知識もなくて、摂理をおおい隠した者は、だれでしょう。 まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。 どうか聞いてください。私が申し上げます。私はあなたにお尋ねします。私にお示しください。 私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。 それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。』

「私は知った!私は見た!」 その意味は、ヨブが肉眼で神を見たのではなく、彼の霊眼と全身全霊によって神を見て知ったのであろう。 そのことは肉眼以上に人間の魂に迫るものがあると思う。 復活のイエスと共に、エマオという村へ歩く弟子達には、隣を歩まれるイエスさまを認識出来なかった。 それは、彼らの師であるイエスは「十字架において既に処刑され、死んでしまったのだ。」という緊迫した現実感が彼らの心を支配していたからであろう。 人間は確かに五感で生きているのであるが、霊、魂の不思議な働きは時として、五感以上に人の内側に効果的な作用と働きをするのだと思う。

ヨブの生き方は確かに凡人に真似のできない正しさだった。 しかし、こと神の前においては、人間の物差しなど意味を持たない。 この世の善悪感を神の前にひけらかしても、たかが・・・の世界である。 創造者の見ておられるところは、律法や法律と言う物差しだけではなく、神にどう向かい合っているかである。

ヨブが見たものは、人間の想像を超えた未知無限の世界であった。 神が天と地、自然界をどのように造られ、関わって来られるのか、ほんの一部分をヨブに示されただけで、ヨブの持っていた神観は根本から崩れ去った。 それはヨブだけでなく、当然ながら私達もである。

人は変わり、そして変えられる。 自分で変わる場合、良きには限界があり、悪しきには無限であろう。 しかし、神によって変えられるなら無限の高みにまでも到達するであろう。 それは同時に無限の低き(謙遜)場所でもある。

自分で自分は変えられない。 変えられると思う時点で既に創造主に背を向けている。 限界ある己の力に頼らず、永遠無限の主に託すことこそ、人間における最高の知恵の働かせどころである。 『最も安易な対応は、最も困難な状況を作り、最も困難な対応は最高の結果にいたる。』 人は神に向かうことこそが最高の困難である。

あなたの若い日に、あなたの創造主を覚えよ。 わざわいの日が来ないうちに、また、「何の喜びもない。」と言う年月が近付く前に。 伝道者の書12:1節

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