■ 父よ、彼らを赦し給え / ルカ23:32~48 (2010-03-28)
1946年夏、既に終戦の翌年であった。 シンガポール、チャンギ刑務所。 日本人BC級戦犯が収容されている刑務所は、一年前までは連合軍兵士の捕虜収容所であったが、今は両者の立場が逆転していた。 「ナカムラ」という兵士は軍医であったが、盲腸炎を患ったため、イギリス兵軍医らにより手術を受けた。 ナカムラに施術したラブレスというイギリス人軍医は、町でふと目にした日本語聖書を買い求めナカムラに手渡した。 その後、ベッドに横たわるナカムラはラブレス氏とは通訳を介し、神を語り合い、聖書を読み、生と死を語り合った。 10日後、傷口の抜糸が済むとナカムラは囚人房へ帰って行った。 二週間の後、12人の日本人戦犯に刑の執行が迫っていた。 12人は最後の晩餐を囲んでいたが、ラブレス氏は鉄格子を挟んでナカムラを見つめ言葉を掛けた。 「ナカムラ、キリストは十字架に掛けられ、私達の罪を担ってくれた。あなたは既に癒され、救われている。」 直立不動で聞いていたナカムラは、自分が死ぬ前の様子と別れの挨拶を家族に伝えて欲しい。」と望んだ。 翌朝、12人は皆「バンザイ!」を叫びつつ絞首刑で死んで行った。 ラブレス氏は全員の遺体確認をしたが、過去に覚えが無いほど辛かった。 そして、ラブレス氏は今もナカムラの遺族を探している。 (以上、朝日新聞2010年4月3日朝刊)
十字架のイエスは苦しい息の中から叫んだ。 『父よ、彼らを赦し給え。彼らは何をしているのか、自分で分らないのだから・・・』 ほとばしり出る様な、主の叫びが胸が痛い。 どれほど不遜で自己中心な人間でも、無信仰で傲慢な人間でも、イエスの声が突き刺さる。。
私達人間は、自分は正しく良い者だという間違った先入観で生きている。 間違っていることを認識していても、正しいと思っている生き物は人間しかいない。 その様な人間達のために、神ご自身が十字架で死んでくださった。 そして、罪の裁きを主がその身において、贖われた。 毎週毎週、同じ様なメッセイジを語り、そして聞いていても、受難週の金曜は辛く思い。
一つの命、その重さを神は知っておられる。 ましてや滅び行く魂を思うと、創造主の痛みはどれ程のものか、罪びとの私には想像も及ばない。 一点の罪なきイエスが死ぬ前に叫んだ声と言葉は、いかなる罪びとの魂にも届くであろう イエスを挟んで十字架に掛けられた二人の極悪人はそれぞれ対照的であった。 と言うより、その二人はそれぞれに私と言う人間性と思いをあからさまにする。 一人は言った。 「お前が神の子なら、そこから下りて自分と我々を救え!」と言った。 彼の思いと言葉が何故か、時として私の内側にかぶさる。何故だろう? もう片方の男より、この男の思いが私に近いのである。
だから、せめて死に際には 「主よ、あなたが御国に入るとき、どうか、この私を覚えてください・・」と言いたい。 いや、何が何でも言わねばならない。