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■ UMBLIEVABLE・信じられないこと / ヨハネ20:1~20 (2010-04-04)

「何が信じられないか」と言って、最も信じられないことが起こった。 それは死んで三日目になろうとしているのに、その人がよみがえったことであった。 イエスのよみがえり、それも顔や姿が確かに今までのものであっても、何かが違うのであった。 この部分は幾ら親しい弟子達であっても、気味が悪いと言おうか言葉に表現できなかったであろう。 しかし、そこから「キリスト教」が始まり、新約聖書が生まれたのである。 その日がなかったら、キリスト教も教会も存在しなかった。 仮に風や波がイエスの言葉に従わずとも、魚の口から銀貨が出なくとも、キリスト教は変わりなく存在したのである。 イエスのよみがえり、これが全ての始まりだった! 旧約聖書だけであれば、世界の人々を2千年間も捉え続けることは出来なかった。 新約聖書が生まれて、律法や詩歌、歴史の書は、旧約聖書と呼ばれたのであるのだから。

世界で一番初めのイースターは、喜びなど感じられない日であった。 困惑、不信、恐れ、すべてネガティブなメージが弟子たちの心、そのものだった。

クリスチャンになって初めてのクリスマス、初めてのイースターには忘れがたいものがある。 私など33年間、聖書や教会に全く縁がない世界で生きて来て、出会った教会生活はどうしても宗教界の一員といった印象が拭えなかった。 すると、どうしても実生活と食い違う部分が出て来る。 当時は座右の書が聖書になろう訳もなく、座右の言葉が神の言葉になろう筈もなかった。 日曜はよそよそしい日であり、嘘っぽいと言おうか、自分が偽善者でしかなかったものだ。 それでも、何故か「牧師にだけは、なりたくない。」と自問自答していたのだが、考えてみれば自問ではなく、生きておられる神が私に問い続けておられたのだ、と今頃、気がついた。

弟子たちが何故、あれほどに主のよみがえりが信じられなかったのか、と言うと答えは簡単である。 弟子たちが信じていた方は、ナザレの村のイエスだった。 ガリラヤを中心にして伝道、宣教されたイエスであって、湖の上を幽霊の様に歩かれたイエスであったが、やはりナザレのイエスであった。 更に、死んだラザロを四日目に墓から呼び出したイエスであり、十字架で殺されたイエスであった。 そして、そこですべてが終わったイエスであった。

だが、私達が信じて受け入れた方は(勿論彼らの信じたイエスではあるが)、十字架で死んだイエスだけに留まらない。 私達の内におられる方は、殺されて終わった方ではなく、三日目によみがえられて、今も生きておられる方である。 彼が共に居て下さるのだから、仮にこの身が死んだとて、死が終わりではない。 新しい体をいただいて、主と共に永遠の神の国、新しいエルサレムが信者を待っている。

『わたしはよみがえりです。命です。誰でも私を信じる者は死んでも生きるのです。』

辛い月日もある。 悩みの日も続いている。 まるで出口の無いトンネルの様な時間も流れている。 しかし!イースターの朝が来ると、天地がひっくりかえった様に、現実がひっくりかえるのだ。 腹の底?心の底?どこからか場所など分からないが、喜びがこんこんと湧き上って来る。

毎年思うことがある。イースターの早天礼拝、もう辞めようか・・・ しかし、いつも思い直す。 こんな気持ちになれるイースターの早天礼拝は、やっぱり辞められない・・ 勿体無くて、勿体無くて・・・辞められる筈がない。 出来るものなら、いっそのこと、毎週日曜朝にイースター早天礼拝をやりたい。

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