■ あなたは神の言葉で自分を計れますか / 第一ペテロ2:10~12 (2010-04-11)
ある本にこの様なことが書いてあった。 「年をとったせいか、どうも怒りっぽくなったと言う方が少なく無い」と。 それを読んで、「フーン、自分もそのタイプであるし同感だなぁ」と感じた。 但し、その本の著者は加齢を言い訳にしていなかった。 「年をとったからではなく、長年の積み重ねがそういう性格を作ったのです。今、そう感じるのは、昔からずっとそうして来たからです。」と。 そうか・・多分そうかも知れない。と、妙に納得せざるを得ないものがあった。
多分、多くのクリスチャンが似たように感じたり、そして自分に向かい合い、嘆いたり諦めたりしている境地であるかも知れない。 但し、神が全能であることを信じているのであれば、変わらない自分の悪癖や習慣は信仰の妨げになる杭だ。 しかし、パウロが内をあからさまに記したローマ書は、その事とあながち無関係では無いのだと思った。もしかして人が死ぬまで脱ぎ捨て切れない殻の一つかも知れないからだ。 そこで脱皮できない弱さを思い知らされて、死ぬまで十字架が必要であることを思い知らされる。 もしかしたら、これも神の摂理か・・とさえ思えるが、やはり神はご自身で創造された人間のことは良くご存知であると思わされた
人間は欲で生きる生き物である。 一概に欲を非難すべきではない、と思うが、欲が人間を支配する場合も決して少なくない。 これが困った結果を生む。当人にとっても、最後には悩みの種どころか、人生が終わってしまう原因になる。 生き甲斐とか夢といったレベルならば左程困った対象では無いだろうが、慾に取り付かれると本来の人間性を失い周囲から嫌われようと、お構い無しにさえなる。悲劇は既に始まっているのだ。 だから、聖書にふれ、聖書の言葉を物差しにして自分を計ることが必要である。 クリスチャンであることの祝福はここにある。 自分の内側を計る余裕と広さを神が与えてくださるからである。
冒頭に挙げた本の中に、この様な箇所があった。 C・S・ルイス氏の言葉である。『一つひとつの選択や決断によって、その人の核となる部分、選択を決定づける中心の部分が、少しずつ変えられて行く。』
唯一、生きておられる神と信じる人生が私達を変え、そして成長させる。 例えば、昔はこういう生き方しか出来なかったが、主は私を養い育てられたので、以前と比べ、はるかに違うタイプの域を持つ人間になれた。しかし、それは自分で自分を変えたのではなく、神が私を変えられたからである。 日々の出来事や体験を通して、自分の中の核が動かされたのであろう。 しかし、生まれながらの私の個性は、今も健全?であることを神に感謝している。