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■ この思いをへし曲げても選ぶべき自由がある / 第一ペテロ 2:13~17 (2010-04-18)

聖書によれば、私達クリスチャンにとって、この世はあくまで旅先であり旅路である。
 私達信徒の国籍は天にあり、やがてこの世の旅路を終える日、天に用意された家に帰るのである。
つまり、この世は私達にとってあくまで「寄留地」なのだ。
 永遠の天にある住まいが我らの住処であって他には無い。
 

ペテロの手紙は異邦人の地に住むキリスト者に向かって書かれている。
 私達とは比較も出来ない程の厳しい環境であったろう。
 奴隷制度も現存しており、人間の上下関係と民族関係も今と比べ格段の差があった。
ペテロの手紙の内容から、当時の艱難辛苦の中に置かれたキリスト者の生活が想像できる。
 

たとい、どの様な国のいかなる指導者の支配下に置かれたにせよ、そこで生きるならば、その地の法律と規則に従って生きなさい、とペテロは書いている。
ここは私達にとって観念を強いられる。
 自分で納得できるか否かでの問題ではない。現実を仮に理解できなくても、受け止めて受け入れて行きなさい。主の故に、である。
 今の平和な自由社会の、この国などでは考えられないことであるが、僅か65年以上前はこの国にも、そういう日常がそこかしこにあった。
 

 自由社会であればこそ、違った部分で人は葛藤を覚えることもがある。
それは自由の中でこそ、自分を律して生きる必要もあるからだ。
 仮に規則で謳って無いにせよ、傍から求められる見えない側面もある。
そういった場所では「自分をへし曲げてでも」対応すべきものであることを、人は学ばされる。
ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤ地方に散らされたキリスト者が負わされた箍とは比べようも無いのだが・・・
 

 モンゴルから来た青年は、異国に存在する別世界の別次元の様な相撲界に身を投じた。
 共通することは「相撲」というスポーツであった。
 異なる言葉、しきたり、絶対的で封建的な上下関係の中で、彼は横綱まで駆け上ったが、結果的に彼の強さが災いした。
 横綱とは神道では神に等しい立場である。負け越しても、その位置は変わらない。
だから横綱は自分で自分を判定し、自分で最後を決めるのである。感情表現は最小限にとどめ、礼に始まり礼に終わり、勝って奢らず敗者を思いやり、常に自分を制し、言葉と行動において決して慎み、間違いなどを起こしてはならない。
これが横綱を締める品格であり、求められる最高の立場であり、故に崇拝の対象にさえなる存在である。
 神道が構築し、今日まで残した歴史と保守の美であり哲学であり、崇拝と尊厳の世界であろうか。
 

かの横綱は、自分に負けた。仮にどれほど強く、絶大な人気が伴うとしても、その道は求道者の生きるべき世界であり、単なる古いしきたりの世界ではなかった。
それが彼には納得も出来ず、受け入れられなかったのであろう。
 

 私達は自由であった。
 否、自由を選べる立場であった。
 時として、自分にとって納得行かずとも、心を「へし曲げて」選択すべき自由がある。
 十字架を選んだのはイエスである。彼はそれを拒むことも出来た。
しかし、彼は自分の意思と自由で、父に従う道を選んだ。
その苦しい道において、益と徳と赦しと開放を人類に与えることが出来るならと彼は自分から十字架に上がった。
 

 

 

 

 

 

 

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