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■ 主の目と耳は私の上に / 第一ペテロ3:9~16 (2010-05-09)

生きる世界、実に思い通りに行かない事ばかりである。
 思い通りに行っている人もたまにはいる。しかし、大半はそうは行かない。
しかし!だからこそ、神を信じ続けることに深い意味があるのだ。
と、思うが如何であろう。
クリスチャン生活を継続する中で本当の価値を知っておられるだろうか。
それは何一つ思い通りに行かない人生なのに、何かにつけて「イエスさまが一番です。」と信じて生きることだと思う。
 株価の動きを表すグラフではないが、いつも上がったり下がったりの繰り返しでは当人も疲れるし、イエスさまもお疲れになると思う。
 不変の信仰は無理だとしても、やはり現実に比例しての上下生活は最後には磨耗してしまう。
 

クリスチャン信仰は自由である。
 何かにつけて本当に自由だと思う。その自由とは1+1=2にならない世界に存在する。
だからこそ面白い、ということに気がつく迄、大分時間が掛かったが・・・
 この世は1+1=2であり、そうならないと納得など出来ない。
しかし、クリスチャン生活には1+1=マイナス2になることもあれば、1+1=10にさえなってしまうことがある。場合によっては百にも千にもなる。
こんな世界はキリストとの人生以外に皆無である。
 

 神はいつも私達を見ておられる。
なのに、私達は自由を取り違えていることが多々ある。
そこで人間の「行動原理」を端的ではあるが考えてみた。
1、 したいからする。(一番人間的であるが、殆ど動物的であるとも言える。)
2、 一応考えてから行動する。(当人も納得したいからであろうが決して間違いも少なく無い。)
3、 主に従い、敢えて自分の道を変えてでも行くべき道を選ぶ。(こうありたいが実に難しい。苦しみに出会うと後悔に走り易い。信じて選んだ岐路であるなら、そのまま進みたいのだが。)
 

 使徒行伝15章~16章、パウロとシラスはマケドニヤ州のピリピに渡ったが、大きな試練に見舞われた記事が書いてある。
 鞭で打たれ、足かせをはめられ、挙句の果てには牢獄にぶち込まれた。
しかし、その夜中に彼らは神を賛美し歌を歌っとある。
 「それは彼らが信仰深いから」とか「神が賛美する思いを与えられたから」とか言えるが、実はもっと具体的な部分を知りたいのである。
もし、それが自分だったらと考えると、尚更に突き詰めて知りたいのだ。
 聖書をさかのぼって読むと、答えが出てくる。
 

 彼らがまだアジヤ州にいた頃、進むべき道が次々と閉ざされた。
 色々な理由があったのかも知れないが、行くべき道のすべてにドアが閉じた。
その様な状況の中、ある晩、パウロは幻を見た。(寝ている間の夢だったろうか。)
 一人のマケドニヤ人がパウロに向かって「どうかマケドニヤに渡って来て、私達を助けてください。」と懇願したのである。
パウロは、その幻が神からのものと信じてマケドニヤへ渡った。
だが、マケドニヤへ渡った彼らを待っていたのは試練そのものだった。
 神は祝福よりも試練を備えられたのか、と考えてしまう。
しかし、現実が思い通りに行かないのではなく、神は現実の中に働く方である。
だからマケドニヤでどの様なことが待ち受けようとも、彼らの唇からは神を称える歌と言葉があった。
そして、牢獄で体験した出来事、更に翌日牢から出される場面を聖書から読むと、1プラス1=万の世界を見るのである。
 実に不思議な神の摂理は現実の世界で体験できる。
それはキリストが生きて働かれる世界であるからだ。
 

 

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