■ 主のお心は果てしなく広い / 第一ペテロ3:17~22 (2010-05-16)

人は利己的、自己中心的生き物であるから、時として神のなさることに注文をつけてしまう。 つまり、納得出来ないことも多々あるということだ。 考え様によっては、それだけ真面目?いいや、一生懸命ということかも知れない。 熱心とか一生懸命、それ自体は決して悪くはないが、中心が自分の側にブレていないことだけは確認しておきたいものだ。人間の陥り易いミスでもあるから。

神さまのお考えになる世界は人間などに想像もできない。 あまりに広く、あまりに深い。人はその様なことは想像せず、黙々と信仰に生きることが良い。 納得しようとしないで、神を神と信じたのだから、ゆだねることである。 委ねるとは自分で工作せず、一切合切を手放すことである。 無責任になることではない。キリストに従うのである。

だからと言って、主の寛容と忍耐を限りなく利己的に当てはめてはならない。 私など、どうしても自分に都合よく考えてしまう性質なので、困ったものだ。 但し、主の「み旨」に関することだけは、先走らないように自分を戒めている。 主のみ旨はいつもずっと後になって理解できるものである。 時間に生きる私達は決してイエスさまより先を歩いてはならない。 トコトコと主の後から行けば、あまり間違いは犯さないと悟った。

ときどき一人盛り上がってしまい、「神さまに喜んでいただくために」などと口走ってしまうことがある。 だが、これも可笑しい。なぜなら、嫌と言うほどに主を悲しませ、毎日ご期待を裏切り、御ことばに従がわない者が、主に喜んでいただきたい、と思うこと自体、実に傲慢であると考えた。 そういう思いよりも、『いっそのことサタンが嫌がる生き方をしよう』くらいの方が、前向きで可愛げが有ると思った。

中々「ギリギリの信仰」から抜け出せない。 何をするにもボーダーラインすれすれの所で生きているからギリギリとも言う。 ラインなど考えずに、大胆に主の前に生きて見たいものだ。 イエスさまは私の様に、ちっちゃな事でクヨクヨされない。大らかに笑って見ておられる。 なのに、どういうものか義理義理の世界が身近である。 教会生活、クリスチャン人生、どうも義理が付いて回っているように思えてならない。 アガペーの愛とは見返りなど、微塵も求めない。実に気前が良いのだ。それどころか、原因や理由さえ見向きもしない。

私など義理で礼拝の席に座り、義理で奉仕し、あげくの果に見返りを期待するおぞましさである。 「あーあ」自分で自分が嫌になる。 それでもイエスさまは私を愛して止まない。 その愛って何だろう?・・・分からない。だからアガペーの愛なのだ。

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