■ あなたには負うべき十字架がある / 第一ペテロ 4:1~6 (2010-05-23)

人生には色々な十字架がある。 例えば、家族に関する重荷がある。 体に負ったハンディも負わねばならない十字架もある。 重苦しい問題も逃げることが出来ない十字架である。 これらは、負わずにおれないものである。 辛くて心が折れそうになっても、逃げられない・・だから負い続ける。 生きるすべての人たちに十字架はある。

そして一方ではキリスト信仰に生きるが故の十字架もある。 楽しいからする奉仕もあるが、それは十字架ではない。 クリスチャンの十字架とは、負わずとも生きられるものである。 つまり、十字架を下して自分の生きたい方向へ行くことが出来るけれど、イエスの思いを感じて敢えて背負い続けることである。 ここに生きる意味は、キリストの目と心を信じているからこそ負い続けるのである。 それだけのことである。自分としては、いつでも下してスタコラ逃げることだって出来るからと思うのだが・・・やはり「何か」がそれをさせないのである。 「何か」とは、「自分だけで向かい合うキリストとの関係において」であろうか。

二千年前のクリスチャン達は今の私達には想像出来ない世界に生きていた。 身分差別、人種差別、性差別、キリスト信徒への迫害。 彼らは信仰を捨てるか、痛みをかわすかの立場において決心し、自ら肉体的苦しみを選んで行った。 勿論、多くの人たちが苦しみに対する恐怖の故に、信仰を捨てたのも事実であるからこそ、ペテロが手紙で言及している、と解釈できる。

鞭、拷問、そして死が彼らを待ち受けていた。 それでも彼らは体への痛みを甘んじて受けた。 肉体への痛みと苦しみは、時として彼らのキリスト信仰を強め、罪の誘惑からの脱却する力となった。 キリストは罪無きお方であったのに、自ら苦しみを背負い、罪びとのために死までくぐって下さったことが、彼らにとって身をもって共有するところとなり、信仰は尚更に熱く燃えたのであろう。

私達が生きる、この恵まれ過ぎた時代と比較すると、その不条理こそが信仰をかき立てる一因でもあったことに納得はできる。 苦しみか信仰か?命か信仰か?死か信仰か? この様な究極の場面が別次元の今の日本であればこそ、キリスト信仰で無ければならない意味が薄れることも事実であるが、ここは感謝意外に言葉などあろう筈も無い。

クリスチャンが負うべき十字架は実に自由である。 いつだって諦めたり、下したり、やり直すことだって出来る。 選択するのは、あくまでも私達であって神ではない。 だからこそ、多くの人たちが自分の十字架を背負って行ったことは事実である。 生きておられる主は、今日も私達に語り続けられる。

「誰でもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」ルカ9:23

一度しかない人生だからこそ、キリストの後をついて行きたいのである。

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