■ ナザレのイエス、その生き方 / マタイ26:20~39 (2010-06-06)

イエスは神の御子でありつつ、「ナザレの村の大工のせがれ」としてこの地上を歩まれ、この空気を吸って生きられた。 ナザレのイエス、これ以上身近に感じる表現があろうか。 このイエスゆえに、最後の晩餐を弟子たちを食され、その後に園で祈られた言葉が心に痛く響く。 頼りない弟子たちを頼りにされた。 「わたしは悲しみのあまり死にそうです。ここを離れないで、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」(マタイ26:38) 少し進んで行かれ、イエスはひれ伏して祈って言われた。 「我が父よ、出来ますならこの盃をわたしから過ぎ去らせてください。」 実に弱々しいのである。 あれほど多くの奇跡をなされながら、イエスは弱さをあからさまにされた。

ここに人の子、イエスを見て心が震える。 十字架に掛けられること。我が父よ、と呼ばれる神から切り離されること。愛する弟子達との別れ・・どれもこれもイエスにとっては辛く、心引き裂かれる思いであったのだと思う。 「私のために・・」である。 「あなたのために・・・」である。 すべての人類、その魂の救いのために、彼は父なる神によって決められた運命に従った。

キリスト教の最大にして唯一のテーマは「赦し」であると思う。 赦されざる者が赦される、これが十字架のテーマである。 そして、私達が今、生きる場所でも赦しが先行するのである。 だが、どうしても赦せぬ相手に対し、身をよじっても赦すことなど何人(なんぴと)であっても出来ないことだ。 自分が頑張って出来るのは、日頃の仕事位であって、心きしませて対応することなど、先ず出来ないことである。 但し、イエスが一緒に生きてくださって、隣におられる間柄なら可能である。

ナザレのイエスの祈りの終わりは、「しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころを行ってください。」で、あった。 クリスチャン、その人生で取り組むことは、イエスによって、ここに語られたと思う。 「こうなればいいのに」「そうなって欲しい」「ああしてください」「これも、あれも」と祈るが、最後に「しかし、あなたのみ心を行ってください。」と心から祈れれば、それ以上の祈りはあるだろうか。 信じる、という言葉は本当に幅広い解釈が出来る。 頭のてっぺん、髪の毛の先から、足のつま先の爪に至るほど、信仰という表現は様々である。 そこで「信じるとは」をもっと具体的に考えた。

信じるとは・・ 第一に生活である。 生きる現場で神を信じてなければ、それは理想家、思想家である。 第二に、生きるとは・・ 実行である。聖書のどんなに小さい命令であっても、実行されるとしたら、実に尊いと思った。そこにその人の信仰が光るのである。 第三、信じるとは・・・ 明け渡しである。あまりにも簡単に言い過ぎて、余りにも重いのが、自分を神に明け渡す ことである。 どれもこれも到底自分の力ではできない。イエスが共に生きてくださらない限り、無理である。

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