■ ペテロの遺言 / 第二ペテロ1:10~15 (2010-07-25)

ペテロの第二の手紙には遺言のような言葉が登場する。 彼が死期(殉教)の近いことを悟って書いたと思われる。 『私には間違いなく、この幕屋(体)を脱ぎ捨てるときが迫っていると思うが、あなた方には是非共、奮い立ってもらい、神の子供として熟練し、練達したキリスト者の道を生きて欲しい・・・』 その思いを詳細に連ねて書いた言葉がある。 「信仰には徳を、特には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を兄弟愛には愛を加えなさい。これらが備わっていないなら、あなた方は盲目であり、近視眼でしかない。しかし、こられが備わっているなら、(信仰生活に)躓くことなどありません。」 アーメン、まことにそのとおりである。 『これらを・・』と総合的に捉え、ペテロはくどい程に当時の教会と、私達21世紀のクリスチャンに要望している。

ペテロの思いと言葉を考えたとき、果たして私達はどんな言葉を残してけるだろう。 教会に、そして同信の友たちに対してどんな言葉を贈るのか・・・と考えた。 「長らくお世話になりました。何のお役にも立てない者でしたが、一足お先に参りますので後のことは宜しく頼みます・・」では、余りに虚しく悲し過ぎる。 そんな、ありきたり「あったりめぇ」の様なものではなく、聞いた人たちが「ようし、俺たちもやったるで!」位に目が覚めるような意味あるものが語れないのだろうか。 しかし仮に突然な死が訪れたとしたら、どうだろう。言葉を考えている余裕などない。 つまり今、生きている場面以上のセリフや言葉などが遺言となって語れない、ということである。 それは今日を、どんな思いと信仰で生きているかに、すべてがかかっているからである。

チャールズ・スポルジョンという先生は非常に意味ある言葉を端的に残しておられた。 「小さな信仰はあなた方の魂を天国に連れて行く。けれども、大きな信仰はあなた方に天国をもたらす。」 実に含蓄ある言葉だ。 同じ生きるなら、どうせ生かして貰っている人生なら、思い通りにならないこの世で天国を体験したいものである。 それくらいの座った言葉はキリストを信頼する信仰からしか来ない、と思った。 主は言われた。「あなたがたのただ中に、神の国は来ている。」と。

私のキッチンの窓辺には餌台が吊り下げてあって雀たちが早朝から頻繁にやってくる。 家の中にいる私と目が合うと、パッと飛び去ってゆく。 しかし、餌がなくなると不思議な行動をとる。 人の顔を求めながら、しきりにチュンチュン鳴きながら、室内に向かって餌を要求してくるのである。キッチンで人が見えなければ、家の周囲で鳴き続ける。 そしてある雀は、窓のサッシ枠にとまって、室内に向かって餌が無くなったことを必死に家人に訴えるのである。

ああ、人間もその人生で心渇き飢えたとき、創造主に向かって必死に訴えたら良いのにとつくづく悟るらされた。

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