■ よりセンシティブに / 第二ペテロ1:16~21 (2010-08-01)

この世は時間が支配している。 時という空間は、ある時期まで成長させ、やがては衰えさせる。 永遠は神のみの領域にある。 創造主であられる主は、被造物すべてに対し、永遠なる存在、永遠の命を与えられなかった。 人も動物も、鳥や魚、虫と草花、木など、すべての生き物、生あるものは必ずいつか朽ちててゆく。 伝道者の書が言う。

『実に知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増すものは悲しみをあます。』1章18節 まことにそのとおりだと思う。 しかし、神は永遠の命をたった一つの対象者に与えられた。 キリストを信じて受け入れた者だけに与えられたのである。

人間の体は20歳を超えた辺りで成長と拡大が止まる。 その近辺を頂点にして下降(衰え)が始まる。 目に見えるところ、それ以降も成熟と表現も出来ようが、あきらかに下降が始まっているのだ。 スポーツ選手を見れば如実である。 柔道など最も早い時期に頂点を迎える。相撲も然りである。水泳、陸上、すべて頂点は若い時期の肉体である。 つまり、25歳前に最高のコンディションを迎えており、そこから後は蓄えた技術で持ちこたえている。

しかし、信仰の世界にだけ、逆行しているものがある。 「私達の外なる人は衰えても、内なる人は日々、新しくされます。」第二コリ4:16 つまり肉体は衰え行くが、信仰に生きる内なる霊と魂は益々若々しく(新鮮に)なるのである。 実に創造主の活力ある働きと力の故だと思う。

ペテロは手紙の中で声を大にして叫んでいる(と、私は感じるのである)。 「私達はキリストの威光の目撃者である!厳かな神の声がこう言った!これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶものである。」

果たして私達21世紀に生きるキリスト者は何であろう。 あきらかにキリストの目撃者ではない・・・ しかし、言えるとすれば・・・「私達はキリストの威光の体験者である!」 キリストを体験すること以上に、キリスト者に大切なことがあるだろうか? この罪ある汚れた存在が、彼の血によって赦され、解放されたことを日々を体験しているのである。 弱き者、欠けある者が、イエスのよみがえりの力をいただいて、わざを行っているのである。

私の好きな言葉がある。 センシティブ(sensitive)という。 敏感とか感度の良いという意味である。 通常使われているデリケートと言う同義語があるが、こと信仰生活においては相応しいとは思わない。 日々の生活、そして聖書の言葉、聖霊の働きに関して、神にセンシティブな生き方が求められる。 鈍感に流されていると、創造主の微妙は指の動きなど先ず感じられないし、見落としてしまう。 聖霊の声は肉の耳には聞こえないが、霊なる心の耳なら捉えられる。 神の摂理はずぼらな人生には響きも鳴りもしながいが、細やかに神経を働かすならキャッチできる。

この世は社会に対し実にセンシティブである。 人々が何を求め、何に感じ、何を見て、何に感動し、何に心をときめかせているのか・・・ そして、それをいち早くキャッチした製品を送り出した企業が成功を収める。 クリスチャンは、神の働きと問い掛けにもっとセンシティブに生きるべきである。 マタイ10章16節「蛇のようにさとく・・」 この「さとく」とは、実際的知恵を持ち合わせた賢明さ。すなわち感情だけに頼らず、狂信的でもなく、と解釈できるらしい。 つまり、聖書の言葉を自分の生活に適用し、地味な生き方の中であっても実行すべきは実行し、人生において神のご意思を反映させられる、であろうか。

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