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■ 底なし沼に立つ / 第二ペテロ2:19~22 (2010-08-22)

August 22, 2010

ニセ預言者、ニセ教師、二セ牧師、・・ニセ信徒?
 本物がいるならニセモノがいて当然である。
しかし、誰が偽者かなどとニセモノ探しにやっきになる必要などない。
 偽者は必ず化けの皮が剥がれるときがやってくるからだ。
とりあえず見分ける目安を心得ていれば良いだろう。
 

 @ニセモノを見分ける極意
 1、 それが「何を喋っているか」に注目ではない、耳を澄ますことである。
 彼が何を念頭において何を私達に意識させようとしているかを聞き分けることである。
 聖書は言う。「イエスキリストを語らないものはすべて反キリストの霊であり偽者である。」と。(ヨハネ第一の手紙4:1~3)
 

 2、 それが、人生でどんな実をつけているかに注目である。葡萄はイバラから取れないからだ。
   働きの実と生活の実がどんな実なのかを見れば直ぐに分かる。
 (マタイの福音書7:15~20)
 

3、「それが」ではなく、今度はあなたが本物をどれだけ知っているかだ。
 本物を知れなければ、偽者など見分けようもない。
だから、本物のイエスを知ることである。それもあなたの生活によってイエスを知ることである。つまり、日曜のあなたではなく、普段のあなたによってイエスを知ることである。
 

 

しかし注意すべきは、場合によって自分がある日突然にニセモノになっていることだってある、ということである。
だから、このニセモノ談義は、先ず最初に自分を調べるべきである。
 自分を見過ごして、他のものをニセモノ扱いすべきではない。
 皆、「自分こそ偽者」などと公表もしないし、そっと耳打ちもしてこない。
すべて偽者は自分こそ本物と自信を持っている筈だから。
 

 実際、牧師でも信徒でも、ある日突然変異してしまうことだってある。
 「エッ、あの人が・・」と誰もが思う。
 何が彼を(彼女)をそうさせたのかは分からない。しかし事実、まったく生きる方向が変わってしまった、というのである。周囲は唖然とし、わが目と耳を疑う。
 

 昔、パウロと言う人はクリスチャンを捕まえては殺すことこそ、神の前に正しいことであると信じて生きていたが、よみがえりのイエスに出会ってからは、その人間性も人生も正反対の人となり、今度は命を賭してイエスを述べ伝える人となった。
だから、その逆のケースが起ころうとも少しも変ではないのである。
まさにこの世は聖と悪の霊が入り乱れ、戦っている。私達も自分が今、イエスの僕なのか、悪魔の支配下なのか冷静に見比べることが必要である。
 人は必ず何れか一つ方向である。
イエスの僕なら悪魔の部下ではないだろうし、悪魔の部下ならイエスの僕ではない。
そして、覚えよう。『真ん中は無い!』
 

 底なし沼というものが、この日本にあるかどうかは分からない。
その沼にはまったら最後、もがこうともがくまいと、身体はずぶずぶと底なしの深みにはまり、やがて完全に呑み込まれてしまう。
 想像しただけでも本当に怖ろしい沼である。
 果たしてこの世に生きる私達はどうだろう。
 

 罪と穢れ、おぞましいまでのわが内は?
 底なし沼で死ぬしかなかったこの身を掬い上げ、神が岩の上に置いてくださった。
おまけにイエスの尊い血潮でもって、洗い流してくださった。
だのに、再び生きる世界はやはり泥沼である。
そして何が起こったか?神は底なし沼に巌を置いてくださり、もう再び沈み込まない状態にされたのである。
これが私達でなくて誰だと言うのだろう。
 

 

 

 

 

 

 

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