■ 主は生きておられる / 第一列王記17:1~8 (2010-10-17)

「主は生きておられる」 これだけが私達の力である、と言っても過言ではない。 生きておられる主を信ずれば生きた信仰となる。 思想だけではない、理想だけではない、神学でもない。 自分が今生きる人生に、試練の嵐の中に、騒音とストレスの中に、行き詰まった問題の中にもイエスは生きて、共に歩んで支えてくださる。 脈動する信仰に不可欠な力、それはイエスがよみがえられて、生きておられるからだ。

イエスは死んでよみがえられた。 だから、仮に私が幾度死のうと(不可能な程の絶望の数々)、私はイエスにあって立ちあがる。 金も要らない、世の力も要らない。 言葉ではない、助力でもない。 生きておられる主だけが、私達の頼りである。

遠い昔、旧約時代、イスラエルびとにとっての慣用語があった。 それは「我らの主は生きておられます。」であった。 挨拶用語ともなったその言葉から、イスラエルびとは大いに誇りと勇気を感じたことであろう。 エリヤという預言者はその言葉を時の王、アハブに向かって宣言した。 イスラエルのという神の選民の王国に偶像を持ち込み、大いに国に恥辱と信仰の堕落をもたらしたアハブ王に対し、真っ向から神の言葉の代弁者として立ち上がったのである。

エリヤに味方はいなかった。 家来もいなかった。 金もなかった。 権力も地位もなかった。 一方、アハブはエリヤの持たない全てが有った。 だが、エリヤにはアハブが持たないものがあった。 それは「主は生きておられる」という確信と事実と神から与えられた使命であった。 エリヤを王の前に遣わしたのは、生きておられる主であった。

クリスチャン信仰に輝きと力と勇気が欠けているのは、まさに「主は生きておられる」が欠けているからではないか。 もし、それが欠けていたら・・・・ 恐れと失望と限界が私達にのしかかる。 何故、キリストの福音が世界中、そして民族、部族にまで拡がったか? それは「主は生きておられる」からである。 それ以外にどんな理由が有ろうとも、この確信と信仰、現実の前に立ちおおせるものなどない。 であるのに、今だにこの国はそれぞれが己が神々を造り、アハブの如く民の目を眩ましている。

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