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■ キリストにしがみついて生きなさい / 第二ペテロ3:14~18 (2010-10-24)

信じるという言葉から信仰という派生語につながる。 但し、これはあくまで日本語においてである。 信仰とは「私の中の神の国」ではないかと思った。 いつも私の内に存在している世界であり、私だけのものである。 そして、それは生きているのだ。ここが素晴らしい。 同時にそれはある瞬間、まったく存在していないかの様にも思わされる実に不思議な領域だ。 いつまでも有ると思うな親と金、と昔の人が言ったが出来れば「信仰」も付け加えたい。

キリストを「信じた」ところからクリスチャン生活が始まった。 それは、やがて「信頼」へ、そして「ゆだね」へと発展成長する。 私としては「信仰の進化」(但し、Develop)とも思える。 人生の中で、試練や祝福、そして人間関係と問題の壁、それらと出会い超えて行くところで、信仰は進化して行く。 この進化の中心は決して変わらない。 生きる視野の拡大と経験の積み重ねが進化させるのかも知れない。 だが、それによって一歩ずつ神に近付くと共に、自分にとってキリストが無くてはならぬ存在となる。

神を信じる前はやはり「義認は行い」、という思いが人間の中に潜んでいる。 若い金持ちの役人はイエスの前に来て言った。 「主よ、何をしたら永遠の命を得ることが出来ますか?」 また、ピリピの町の牢獄で、鎖のほどけた囚人、開いてしまった獄の扉を前にして、恐れと驚きで頭が真っ白になってしまった看守はパウロに向かって叫んだ。 「救われるために何をしなければなりませんか?」 いずれも救い、永遠のいのちを得るためには、何かをすること、と考えている。

だが、クリスチャンになってしまうと、どうもこの行動がついて行かない様に感じる。 救いの約束を貰ってしまったせいか分からない。 だが私達は当然ながら求められているものがある。 1、主と主の言葉に従うこと。(これは義務ではなく、実に権利である) 2、行動(神を信じているからこそ、行動が伴うのである。) 3、気づき(先を読む、と同時に取り巻く環境に気配り出来ること。) 人間は変われる、変えられると思う。そして変るべきである。 神を信用すれば信用するほどに、神のみ手が私達を変えるのだ。

「世」とは、信仰者を押し流す広い川の様である。 川の周囲は土地が肥えて、様々な収穫と実りがある。 緑は豊かに茂り、美しい花もあり、楽しみは尽きない。 だが、それを求めるあまり神の山に登ることを怠ると、いつの間にかそこを離れるのが嫌になる。 世とか信仰とは、そういうものだと思う。

問題は私達の重心がどちらに掛っているかである。 意識して、神の側に掛けて行かねばならないが、世は違う。 努力して掛けなくとも、自然と傾いて行ってしまうのだ。

イエスにしがみつく。 これが一番である。 自分を過信していると、いつの間にか悪魔の罠にはまってしまう。 セカンド・チャンスなる論理もその類いである。 否定論も肯定論も存在しない。 それだけの価値を持つ論理ではないからだ。

キリストにしがみつく・・・イメージとして格好は良くないが、これ以上の道はない! 格好や柄、スタイルや外観があなたを救うことはしない。 救うのはキリスト・イエスである。

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