■ 主が私の王 / 第一サムエル記8:1~22 (2010-11-14)

私は1978年、33歳の時にキリストを信じる信仰をいただいた。 信仰は神からの贈り物、賜物である。

その日から私の人生は西暦時間になった。 それまでは、すべてが昭和時間であった。 昭和何年に卒業し、昭和何年に起業し・・・結婚、子供の誕生、すべて昭和で理解した。 しかし1978年に救われた、という基点があって以降、様々な出来事はすべて西暦となった。 面白いものである。 たとえ、イエスが生まれたのが西暦元年よりも3年?4年前でも、問題ない。 やはりイエスの御降誕の年を元年として考えると、生きている時間は平成ではなく西暦2010年なのである。 人を神とする元号ではなく、救い主を神と気がついた呼び方がいい。

西暦で数えても届かないBC(紀元前)1050年頃の時代、イスラエルにとっては冬の様な時代が続いた。 いわゆる士師記の時代である。 選民イスラエルには神からの幻も言葉も稀にしかなかった・・・ とあるが、それでもイスラエルにとって新しい夜明けとなる幕開きの時が近付いていた。 私達クリスチャンの人生にも多々あること。 悶々と渋々と、誰に愚痴が言えるでもなく、本音を分かち合う友もいない。 主の前に座っても感謝は常套句であって、心から湧き出る賛美ではない。 それでも、恵みの主はあなたの上におられる。 いつも、そう思う。

エリは神の箱が安置されている宮に仕える祭司であった。 だが、彼の息子達はトンでもないことを毎日しでかしていた。 神への捧げ物の肉を横取りし、自分達で食し、神を愚弄していたのである。 その様なことを知りながら、父のエリは何一つ止められず、為すが儘にしておいた。 主は、再三に渡ってエリに対し、息子達の行状を改めさせるよう語られていた。 そして、遂にエリと息子たちには神の厳しい裁きが迫っていた。

この様なエリの家庭を幼い時から見ていたサムエルであったが、サムエルとて自分の息子達に対し如何ともし難い点があった。 彼の息子の名前は長男のヨエル(ヤハウェは神である)、アビヤ(ヤハウェは我が父)と付けられていたが、そこに父サムエルの思いがこめられているのを見る。 どこの親でも子供達の将来に祝福を祈る。 それが名となっている。 本来なら、息子達は先頭に立ってイスラエルを神の前に導く士師(さばきつかさ)である筈だった。 だが、彼らは世の一員でしかなかった。

人間は唯一の神の前に生き続けることが実に難行である。 人間はどうしても自力を好む。 だが、放って置かれては、人は神の前にも側にも立つことをしない。 自らが望む生き方は、神から離れる一方であり、思考は世の甘い水ばかり求める。 キリストと言う磁石に吸い寄せられる砂跌の如くになるしかないのだろうか。 だが私達はいつも見られているのだ。 見透かされ、裸同然であるのだ。

『造られたもので神の前に隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、曝け出されている。私達はこの神に対して弁明するのである。』へブル4:13

アーメン

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