■ まことの光りが世に来ようとしていた / ヘブル3:1~15 (2010-12-05)

キリスト信仰は心に灯る希望の灯りである。 それは決して華々しい光りではない。消えそうで消えない光りの如くである。 イザヤ書の一節、「彼はくすぶる灯心を消すことも無い・・・」まるでそういう方である。 くすぶっているだけの信仰であっても、イエスは決して消さない。

人間の心とは、なんとキリストの灯りが苦手なのだろうか、と感じてしまう。 それほど自分というものに拘っているのだろうか。 若しくは捕らわれているのだろうか。 そこに留まっていても、希望はやって来ないのに。 この世が提供する希望はこの世で終わるのに。

神の子供達が集う教会は神の家である。 神の御霊が宿る私達キリスト信徒は神の家である。 しかし、私達は自力で生まれ、自力で生きて来たのではない。 すべて神が造られた命と神が造られた被造物世界の恵みによって生きている。 誰でも自力だけで生きられる人間などは一人としていない。

「そんなことは無い。私は一人でも生きて行ける。」と言う御仁がいたとしたら、 あなたは明日から会社や学校に行く必要はない。 そんなことよりも先ず、海へ川へ魚を取りに行こう。 畑は一日中、あなたを必要としている。 水は川から汲む。そのへんにうろついている動物を殺して、肉として食べようか・・・ これだけ考えても既に限界である。 人間は人間社会という仕組みに厄介になって、生きていられる。 その人間社会の霊的リーダーは創造主であるところの神であるが、人間先ず認めない。 これが人間の驕りであり、結果、自分で自分の首を絞めることになった。

曲がりくねった人間の心と人生にさえ、神は希望を下さった。 すべて悲観的な場面でも挫けてしまわないように、神は備えを下さった。 キリストを信じることで何と大きな希望を得たものか、と思う。

先ず、自らに圧し掛かる罪を知るとき、希望がある。 そこでは自分の弱さと穢れとおぞましさを知るばかりであろう。 だが、そこで出会うのは、これ以上の聖さを見ないキリストの十字架である。 そこでこそ、人は十字架の本当の意味を知る。 私達のためではない。私のために、である。

どうしても思い通りに行かない悟ったとき、キリストの希望に出会う。 自分で自分さえ思い通りにならない。否、自分が最も思い通りになっていなかったのだ。 だが、創造主である神こそ、思い通りに行かない人間世界を見てどれほど傷つき、どれほど歯がゆい思いでおられるのか。 思い通りにならない人間のためにこそ、キリストは十字架の上で叫ばれたではないか。 「父よ、彼らを赦し給え。彼らは自分で何をしているか知らないのだから。」

自分に絶望するとき、希望がある。 そもそも人間の不幸はそう思えないところにある。だから神を信じないのである。 絶望を知らないから傲慢となる。 絶望を知らないから謙遜になれない。 パウロという人は自分は神を知っていたと思ったが、実はそうではなかったことを知った。 彼はイエスを信じたとき、そのすべてが分かったのである。 だから、彼は世界中の人にこそ、イエスを知ってもらいたいと思った。 それが彼を伝道へと駆り立てる唯一のモチベーションだった。

クリスマスの灯りは、この時期、世界中に灯る。 だが実際、どれだけの灯りが希望につながる灯りであろうか。 今、この瞬間だけの美しさで終わる灯りが圧倒的である。 決して消えない希望の灯りはキリストと生きる信仰だけである。

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