■ 試練と喜びを同時に下さる主 / 申命記8:1~20 (2011-01-02)

2010年、新聞やテレビを通して伝えられるニュースを振り返ると、総じてこの世は良い方向に進んでいないことが目立つ。 争いごと、貧困と飢餓、自国中心主義、自然の猛威と襲来、次々と尽きない日々の連続であったが、だからこそニュースになるのであろう。 現実の出来事だけを目の前に突きつけられて過ごすと、どうも前向きになれない様に思う。 そういうところで信仰を与えられている、ということは実に祝福であると思う。 世の人々は目の前の180度の視界の中でしか生きられない。 だが、クリスチャンは見えないもう一面の180度の世界も見つつ、生きているのだ。 世の人が見ようにも見えない、合わせて360度の世界を我々は見ている。

試練と喜びとは人生の両極に位置するものである。 願わくは、喜びの連続であって欲しいものだが、そうはならない。 だが神は相反する、この二つの両方を同時に下さっているように思う。

試練の最中に思いがけない平安を見ることだってある。 詩篇の4篇1節の中にこういう言葉がある。 『私の義なる神。あなたは、私の苦しみのときにゆとりを与えてくださいました。』 記者は、私は苦しみの中でゆとりを知った、と言っている。 神を求めて生きる者は、そういう体験をするのである。 確かにそうだと思う。

昔、イスラエルは40年の荒野の暮らしで、天からの食物を味わった。 それが「マナ」と呼ばれるものである。 マナは神の口から出た言葉を象徴する、と聖書は語る。 マナはほんのりと甘かった。 苦しく辛い荒野の旅で、マナは彼らの口と心を癒した。 このマナは一人の一日に必要なだけしか、与えられなかったと書いてある。 誰かが二日分かき集めたら、翌日分は腐ってウジが湧いた。 まさに神を信頼することを教えるマナであった。

申命記8章で神が語られる言葉は、私達にしても珠玉の味わいである。 そこに漂うのは神の親心である。 『この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、腫れなかった。 あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、知らなければならない。 あなたの神、主の命令を守って、その道に歩み、主を恐れなさい。 あなたの神、主が、あなたを良い地に導き入れようとしておられるからである。』

2011年、見渡しても見えて来ないであろうが、厳しかったこれまでの二年を味わってみると、何か素晴らしいことが起こりそうな予感がしてならない。 何故なら神は苦しみだけを、もたらされる方ではないからだ。 私達が倒れてしまわない様に、疲れてしまわない様に、必ず助けを下さる。 そして神は少なからず、サプライズがお好きである。 私達の想像する範囲をはるかに超えて、大きくて思いがけないことも見せてくださる。

申命記8章18節にこういう言葉がある。 『あなたの神、主を心に据えなさい。』 年頭にふさわしい、ことばである。 いつも心のど真ん中に主に座っていただく。 これがゆとりの人生を築く。 この世の現実には実となるものは少ないが、その様な荒野であるからこそ、同時に神からのマナが必要であり、そして与えられるのである。

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