■ そうすれば、こうなる / 創世記11:31~12:4 (2011-01-09)

唯一の神、まことの神さまは難しい関門を私達に与えない。 人間は「これでもか、これでもか」という程のテストと試練を用意する。

遠い昔、父テラの判断の下、アブラムたち家族は今のイラクにあるバスラ近辺に位置した町、ウルから一族郎党連れだってカナンに行こうと出立した。 だが、ユーフラテス川沿いに上って来たが、ハランという町に住み着いてしまった。 住み心地が良かったからか、元々、カナンまで行く気持ちがなかったのか、分からない。 やがて、テラはハランで天寿を全うする。 そして主の御声は今、確かな導きの声としてアブラムを呼んだ。

『あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。』創世記12:1~2

主は「そうすれば・・」と言われた。 聖書の中でも、そういう記述を多く見かける。 つまり、神さまは人間に向かって「わたしが、それを保障しよう」と仰っておられるのである。 「あなたが頑張れば・・」ではない。 「わたしを信じて、わたしの言葉にしたがいなさい。そうすれば・・」である。

だが、神さまが言われる言葉に従うということは、私達にとって(人間全て)実に大きな決断であり、迷ってしまう岐路である。 例えば、私は右に行きたい、しかし主は左に行け、と言われたとき、あなたならどうする? 私なら真ん中を行くだろう。 笑い事では済まされないのであるが・・・ 神の側では無いが、私の道でもないからだ。 その結果、「私は主に従いました。何故なら、私は私の道を行かなかったから。」 だが、神と己は間違いなく知っている。 確かに左に行かなかったことを。

日常の本当に多くの場面で、私達は岐路に出会っているのだ。 「そんな?」と思われる方は、殆ど100%を自分の思う道に生きているか、100%神さまの道におられるか、その何れであるかも知れない。

家族関係、隣人、会社、教会、あらゆる人間関係において人には岐路がある。 仕事、就職、結婚、付き合い、子育て、そして教会における奉仕、岐路だらけである。 アブラムは神の言葉を聞いて、すぐさま、カナンへと旅立った。 それは行き先を神の示された方向に変えたから、ではない。 彼自身の生きる方向を神に向けたからである。 彼はカナンという地が、どの様な場所か知らなかった。 ただ、アブラムは主が示された地へ向かって旅立った。

ここにプロセス(経緯、工程)と結果(effect)が浮かび上がって来る。 神は私達に、前もって結果を明らかにされている。 つまり、私達が神を信じる、信頼しているなら、何も結果を心配する必要など無いのである。 で、中心の問題はプロセスである。 今、私達が生きる日々そのものである。 イエスと生きているのか、日曜礼拝だけのクリスチャンなのかである。

ゴールを心配する必要などない。 そこは主が責任をもってくださるからだ。 神は、私達信仰者がどういうプロセスを踏んでいるかを問うているのだ。 プロセスであって、結果ではない。 勿論、結果は大事であるが、プロセスが良ければ、自ずとついて来るのである。 ゴールを目指すのでなく、プロセスをイエスと生きよう。アーメン?

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