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■ 人の性(さが)と神の愛 / 創世記16:1~16 (2011-02-20)

February 20, 2011

どれほど偉い人であっても、つまり人格者、地位と教養のある人でも、人間である限り「性」(さが)を備え持っている。
これは生まれつきであるので、致し方ない。
 良い向きもあれば、そうでない向きもある。
 本人にとっては辛い場合が多い。
 生涯、向き合うか、無視するか、厄介な部分でもあるが、普段は控えめになっているので、左程悩みの種にはならないかも知れない。
 増してや誰もが持っていると思えばこそ、である。

 

 聖書は最初、つまり創世記の冒頭で、このことに触れている。
 人間である限り、誰もが持っているからという創造者の思い遣りだと思う。
 禁断の木の実(善悪の知識の実)を食べたアダムとイブは、食べてしまった責任のなすりあいをした。
つまり、自己保身主義である。
 自己中心という人間の本質が芽を出した。
 

アブラムとサライは神の言葉を聞いている。
つまり、旧約世界において神の子供であった。
 私達は新約時代の神の子供である。
そして、神の言葉を聞いている。

 

 子供が生まれない老身となって久しく時が流れた。
アブラムもサライも焦った。神は何をお考えになり、時を遅らせているのか。
サライは一計を考じた。
 奴隷女のハガルによってアブラムの子供を生ませ、彼女に子供が生まれれば夫婦の子となる。
 

アブラムは同調した。
 夫婦の考えは成功し、ハガルは身籠った。
だが、想定外のことがサライを襲った。
 妊娠出来ない女主人を見下げ、傲慢な態度をとるハガルとなった。
 

サライは怒ってハガルを身籠らせたアブラムに問題の責任を迫った。
アブラムは問題解決鍵はサライがに握っているのだから、自分の奴隷を生かそうと殺そうと好きな様にするがよい、と突っ返す。
サライはハガルを荒野へと追いやった。
しかし、神はアブラム夫婦の蒔いたトラブルの尻拭いをしてくださった。
 

 私たちは聖書を第三者的に読む。
だから神の愛と思いやりを理解できる。
だが、私達の上にある神の直接的な愛を、どれほど感じ、知り、理解し、受け止めているだろうか。
 

ハガイは主の言葉に従い、へりくだってアブラムの家に帰って暮らした。
 神の子供達、旧約の教会はこの様に葛藤しつつ神の慈愛の中で暮らしていた。
ならば、新約の教会はどうだろう。
 

 旧約時代の何倍も赦され、祝され、恵みを受けている。
だが、私達の「人間の性」(さが)は依然として存在し続ける。
 私達はそれを見たいとは決して思わないが、見てしまう瞬間がある。
 誰にも、向かい会わざるを得ない、認めざるを得ないときが来る。
それはある意味、実におぞましいものである。
しかし、そこにこそ、十字架が迫る。
だから、逃げてはならない。
 見過ごしてもならない。
 神の慈愛、限りなく注いでいるのを認めずして、誰が悔い改めに至るであろうか。
 

 

 

 

 

 

 

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