■ 放蕩息子、そしてその兄 / ルカの福音書15:10~32 (2011-03-06)

今年二月末、ホームページに掲載しているメッセージが丸7年になった。 2003年の三月の初めから書き始めた。 たまにであるが、読んでくれている人がいることを知ると実に励まされる。

たかが7年、されど7年。 先ず欠かさないことを念頭に置いたのであるが、私という器がもう少しましだったら、自費出版でもしたい思いもある。 神さまはいつだって、良き示唆と導きを下さるのであるが、それに応えられないもどかしさをいつも感じている。

放蕩息子のお話に出てくる兄弟は小さい時から父に仕えて来た。 とても7年どころではなかった。 遂に弟息子は決断した。「自分だって、皆が楽しんでいることをしてみたい。」 自立することを父に頼むと、以外や父は納得してくれて、直ぐに生前贈与に応じてくれた。 幾日かして、息子は貰ったばかりの財産を現金に換えて、町へと向かい、日夜酒色に明け暮れた。まさに放蕩、湯水の如く浪費し、あっという間にスッテンテン。 仕方なく豚が食べる豆で腹を満たしていたが、改めて豆を見つめたある日、彼は生まれて初めて自分がどれほど恵まれていた者かを悟った。

彼は父にも神にも申し訳なく、つくづく自分のわがままを知り、罪を悟った。 家に帰ると父は大盤振る舞いをして息子の帰りを喜び祝ったのである。 そこへ野良仕事から帰って来た兄は途端に機嫌を損ない、父に八つ当たりをした。 (我々だって兄息子の気持ちはよく分かる。)

この話は単なる譬え話に終わらないものがあると、私は感じた。 何故なら、イエスはこの話をユダヤ人に向かって話されている。 その場にはモラルなきユダヤ人、身分の低い者、貧しい者、学者もいれば宗教家というユダヤ人の全階層があった。

キリスト教界は、この話を昔から「放蕩息子の話」と位置づけている。 だが、それは間違いである。 放蕩息子がメインではないと、私は考える。 仮にそうであるなら、何故兄息子が登場するのか、である。 更に、兄息子は親孝行な息子で終わらせても良かったのに、一癖ある人間性で語られている。 兄息子の人間性こそ、イエスがユダヤ人たちの内に存在する共通性ではなかったか。 特に自分たちこそ選民たるを誇り、異邦人は犬の如きものと位置づけていた人々。 更に宗教家達は律法に無関心な人々を罪びとという代名詞で呼んだ。

イエスがユダヤ人に伝えたかったことは、「ユダヤ人たちよ、あなた方こそ、この兄息子なんだよ。」ではなかっただろうか? ずっと父の傍にいながら、まったく父の心を理解していなかった。 仕様のない弟を斜めで見ながら、絶えず自分の生真面目さを自認し、父に勝ち誇っていたのではないか。 自分の心の底に淀み沈んでいる醜さに敢えて光りを当てず、善人正直を自負していたのではないか。

そして、兄息子はクリスチャンである我々ではないだろうか。 教会生活が長いと、いつの間にか自分達は世人とは違うと錯覚している。 無意識とは実に恐ろしいものである。 自分が救われたのは、ただイエスの十字架の故であって、自分が十字架に掛かったわけではない。 仮に自分が十字架で死んだとしても、他人どころか、自分さえも救えない。 なのに・・・である。

「神の愛」これこそ、このお話しのテーマではないだろうか。 神の愛はすべての人類に向けて開かれている。 今までは関係ない。今からだ。 そして人はいつだって救われる。 神の愛、神の力がそれを為す。

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