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■ 向こう岸へ渡るまでが肝心 / ルカの福音書4:35~41 (2011-03-20)

毎日掲載される津波の被災地、そして避難所で暮らす人々の大写真が新聞に載り、本当に胸が詰まる。
しかし、大自然の営みに文句をつけても意味がない。
つまり悲しみと怒りのやりどころがない。
まさに一瞬にして家族と家と財産を失った。
 消えた、のである。
 深く抉られた心の傷は10年経っても消えようがない。
 癒す薬も楽しみも見当たらない。
ひたすら耐えている人々を見るにつけ、こちらも苦しい。
 「天の父よ、この国を憐れんでください。民を助けてください。」祈ること自体、辛く悲しく涙が流れる。
でも、心は開かれている。
 不思議だ、こんなときなのに。
いいや、こんなときだからであろう。
 

この人生って何だろう。
 生きる意味ってなんだろう。
 人生観が変えられた様な出来事だった。
1200年に一度の大災害と言われる。
1200年と言えば、およそ17世代が生きては死んだ時間である。
きっと死んだほうが楽、とさえ思えるだろう、被災地の人々は。
しかし、死んだ人の分まで生きる義務もあるとと思う人がいることは希望である。
 

ある日の夕暮れ、イエスは弟子達に言われた。
 「向こう岸へ渡ろう。」
そしてガリラヤ湖の真ん中辺で、文字通りいきなりの突風が吹いた。
 逆立つ水面、小舟は波をかぶり、今にも沈みそうだ。弟子達は懸命に水をかき出す。
その時、彼らの目に映ったのは艫のほうで眠っているイエスだった。
 誰かが怒鳴った。「先生、俺たちが死んでも構わんのですかっ!」
おそらくこんな言い方であったろうか。
 

 漁師が殆どであるが、弟子たちにとってさえ恐怖のであった。
そしてイエスは目を覚ますと風と湖に向かって叱り飛ばした。
 「黙れ、静まれ!」そして湖は静まった。
 

人生は向こう岸へ行くことではない。
 生きる道中が人生であり、行き着くまでが道中である。
もしかしてイエスは『向こう岸へ行くことが目的ではなく、湖へ出ることだったかも知れない』と思った。
そこで弟子たちが何を体験し、何を見るか。
 突発的に襲い来る地震、津波、離婚、病気、死、怪我、事故、あらゆる困難数知れず、である。
 生きるとは、そういう諸々に向かうということである。
しかし、生きるとはそればかりではない、沢山の喜びと楽しと安らぎがある。
 「生きてて良かった。」と人は皆言う。
 

 今回、私は今まで思いつかなかったイエスの姿から力をいただいた。
それは、イエスは荒れ狂う波と風、今にも転覆しそうな小舟の上で眠っておられたということである。
それを頼りないと感じるか、頼り甲斐があると感じるかでは全く違う。
そんな時に眠ることが出来る方は、イエスさまだけである。
まさに牧師だろうと神父であろうと真っ青になる場面である。
 天皇だって大統領だって血の気を失う。
しかし、『彼は眠っておられた』
 

 感謝である。
この方が私の主、私の神。
 感謝である。眠ることが出来るイエスであって。
もしかして、あの「黙れ、静まれ!」は弟子達、そして私達に向かって叫ばれたのかも知れない。
 静まらなければ見えないお方もおられるのだ。
 

 

 「静まりて、われの神たるを知れ。」詩篇46:10

 

 

 

 

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