■ 私の主、私の神 / 創世記17:1~8 (2011-03-27)

「私の主、私の神」と言う人がどれだけおられるだろうか? 「私達の主」という表現さえ、あまり聞かない。 神さまと言っても、「私の神」とまでは言わない。

アブラハムに現れた神は仰せられた。 「わたしは全能の神(エルシャダイ)である。 あなたはわたしの前を歩み、全きものであれ。」 神は一人称単数でご自身を「わたし」と仰せられ、アブラハムを「あなた」と言う二人称単数で呼ばれた。 これは実に凄いこと!と感じる人はどれだけおられるだろうか。 だがクリスチャンと神との関係を明確に言い表していると思う。 こういう世界で私達は生きるべきである。

教会で自分を表現するとき、「私達は」と言う。それはあくまで教会、又は家族という群の自分、または代表としての自分を指す言葉である。

しかし、それ以前に「私の神」となってくださった方がおられる。 それはイエスが十字架で死んでよみがえられたことに対する神の呼びかけと、神に応えた私の応答があったからだ。 この「1対1」の関係がしっかりしていないと、信仰生活はいとも簡単にぶれる。 牧師観、教会観、信仰観、そして自分を観るとき、すべて「1対1」の関係が曖昧なら、 必ずと言える程人は迷い躓く。 他の誰も入り込む余地が無いくらい、この「1対1」の緊密さは重要である。 ここにイエスが血を流し、命を捨ててまでして、私のため(私達ではない)に勝ち取ってくださった自由と開放の関係がある。

「葬儀」「結婚式」、私は幾度も司式させていただいた。 中でも、私は葬儀が好きである。だが、どうか誤解しないで欲しい。葬儀の場、人々の思い、張り詰めた空気。これがたまらないのだ。 押し寄せる悲しみと人の限界、やり場のない心と虚しさ。 会衆の心に去来するものは、此処をおいて他では味わえないものがある。 死を真正面から見つめる。それも一人になって。 やがて必ず己が身に訪れる極限の虚しさが今、そこにある。 ここに解明の鍵があるのか、解決の灯りがあるのか?嫌でも人々は考えさせられる。 クリスチャンであろうとなかろうと、関係ない。 有る! ここにあるのだ! その鍵こそ、イエス・キリスト、このお方だ! 葬儀を単なる葬儀で終わらしては、死の意味がない。

葬儀の司式者はそういう場に一人立ち、個人の死を通して一人一人に向かって語る。 それは会衆全体にではなく、「1対1」の思い、である。

主は今日も私に向かって語られる。 実に勿体無いことである。 あのアブラハムの神が、イエスが、聖霊が、あなたという一人に向かって話しかけられる。 心を開いて聞こう。 聖書は言う。 「アブラハムはひれ伏した。」

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