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■ 礼拝の心は先週の月曜から土曜で造られる / 創世記18:1~15 (2011-04-03)

April 3, 2011

暑い日の昼下がり、50メートルほど先に立ち止まる三人の男がアブラハムを見つめていた。
 眠ってはいなかったが、アブラハムは余りの暑さにボンヤリしていた。
 弾けたバネ如く、アブラハムは立ち上がると走りよって地面に跪いてお辞儀をした。
その三人が特別着飾ったとか、異様ないでたちであったわけではない。
しかし、普通の人間とは異なる品性が見てとれた。
アブラハムはそれを見てとった。

 

アブラハムは普通の人であった。
しかし、我ら凡人と同じではなかった。
 神は色々なことを通して、私達にアプローチをして来られる。
 凡人はそれをいとも簡単に見過ごしてしまうが、アブラハムは違った。
 

 私は彼をこう想像している。
それは、「ここ!というときに、アブラハムは神に従った」ということである。
つまり「生きること全ての根底に、神からの直接的な霊性が流し込まれた人」ではなかったかということである。
 

 怠惰に日々を生きている私がある。
 昨日の続きで今日を生きている私がいる。
これでは、神の語り掛けを見過ごし聞き逃してしまう。
ところがどっこい、アブラハムは違った。
 神が選ばれた「祝福の基」は、やはり普通の人間であったが、ひと味もふた味も違ったのである。
 

キリスト者に不可欠なものは聖書である。
その聖書が、キリスト者の人生のどこに位置するかは更に重要である。
 例えば聖書が棚の上にあるのと、机の上に置かれているとで結果は当然違ってくるのは自明の理だ。
 聖書に頼る人と、聖書を持っているだけの人では、異なる聖書を使っているのかと思うほどであろう。
 聖書から考え方をヒントにすることと、聖書を人生の道しるべにすることは違う。
 神学と福音信仰は、あなたが二股に分かれる岐路に置かれた程に異なるものだ。
 神が共に生きている生活と、神を神棚に置いた程度の生活とでは、同じ神と思えないほどに違う。
 先ず自分があって聖書を読むのと、聖書の中に自分を置いてゆくことは一等と四等賞ほどの差がある。
アブラハムは自分を神に合わせた。
 時間は掛かったが、神が彼を訓練し、彼はそうなることを良しとしたのである。
アブラハムとて神に対し疑念が一つも無かったわけではない。
 重く苦しい彼の心情は、聖書から嗅ぎ取れる。・・・私如きの凡人でも分かる。
 但し、分かったレベルであるのと、神の懐に飛び込んで行くのでは水と油ほどの違いがある。アブラハムは神の懐に飛び込んだ人であった。
 

 日曜の礼拝心、それは日曜だから備えられるのではない。
それは先週の月曜から既に始まっている。
 一日、一日、生きて働かれる神のみ手の中で、神を信頼し、神に賭けて生きよう。
 結果が思ったとおりにならずとも、何らの問題があろうか。
 神を信頼し、神に賭けたのなら、それ以上の何を求めようか。
アブラハムは今出来る、今信じる、今踏み出すところにおいて、神に賭けた人である。
 神は彼にそれしか教えなかった。
アブラハムが見たのは、満天の空に輝く星の数々だけだった。
 神が彼に語った言葉は、「あなたの未来はこうなる」という約束だけであった。
 

 今日、神に賭けないとしたら、結局我々は自分と、この世に賭けているだけではないだろうか。
 

 

 

 

 

 

 

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