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■ 私にある信仰は、この方のおかげです。 / ルカ22:20~34 (2011-04-10)

April 10, 2011

イエスは過ぎ越しの祭りに入る日、弟子達と最後の夕食を共にされた。
 (その夜の晩餐の模様を教会は二千年来、伝えて来た。)
12人の弟子たちを周囲に置き、イエスは一人一人にパンを渡し、そしてぶどう酒を分けられた。
パンはイエスの裂かれるみ体を象徴し、ぶどう酒は流される血潮を意味した。
それが何のために、誰の為かをイエスは語られた。
 

そしてイエスは今から先、彼の身に起こる非情な出来事を伝え、更に弟子の中から裏切り者が出ることをも語られた。
それを聞いて、弟子達の心はさぞかし騒いだであろう。
 「一体、そんな最低のことをする奴がここにいるのだろうか?」
 相当に議論沸騰したであろう。
その一方で、「ならば偉い奴は誰だろう?」という話になり、イエスの心中を思い計る輩はいなかった。
 

イエスは弟子を選択し誤ったのではないか、とさえ勘ぐってしまうが、いいや、彼は間違っていなかった。
 各福音書の冒頭に、イエスの言葉に従って出て行った弟子達は、華々しい活躍をした。
 人々を癒し、悪霊を追い出し、神の国の到来を伝えた。
 何故、あの弟子達が、あのようにめざましい働きが可能だったのか。
それは彼らがイエスの教えられたとおりに行動したからである。
その簡単なことが、私達に出来ない・・何故か。
それは「私の方法」でしているからである。
 

 晩餐の後、イエスはペテロに向かって言われた。
 『シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のように古いにかけることを願って聞き届けられました。
しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。
だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。』
 

まさか!とシモン・ペテロは感じたであろう。
 何でこの俺が?(・・・弟子連中では一番弟子の俺が・・・)
 (しかも、よりによって他の連中も聞いている場所で・・)シモン・ペテロにとって、たまらない思いがあったと想像する。
シモンはイエスに言った。「主よ、ご一緒になら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております!」
それは当然であった。
そして、数時間後、主の言葉が実現した。
 「あなたは三度、わたしを知らないと言う。」
・・・そして、そのとおりになった。
 

そう、信仰は無くなるものである。と、私は信じている。
もし、自分で努力し、得たものなら無くならないであろう。
だが、天から頂いたものだから無くなることだってある。そう思う。
クリスチャンである方々、そしてこれから入る方々、このことをよく覚えていて欲しい。
 

 大切なことがある。
イエスはペテロの信仰が守られるように祈られた、ということである。
 同様に主は、私達の信仰のためにも祈っておられると思う。
この不安定な私の、しかも無きに等しい私のためにイエスが祈られた。
それでいいではないか、と思う。
これ以上に嬉しいことがあろうか。
 第一、祈られる程の信仰の「生かし手」になれと、期待されているのだ。
 決して賞賛をあてにした他の人の目と言葉、心のために、私達の信仰生活があるのではない。
 先ず、神とイエスの前で生きるためにあるのだから。
 

 

 

 

 

 

 

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