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■ 死がいのちに呑まれた朝 / ルカ 24:1~11 (2011-04-24)

April 24, 2011

命あるものにとって、死はすべての終わりの終わりであった。
 人がたとい世界を掌握し、我がものとしたにせよ、死は彼に終わりを告げさせる。
 仮に幾ら身体を鍛えたにせよ、死には勝てない。
 金持ちも権力者も死は最強の敵であり、絶対に勝てない敵であった。
しかし、その死に終わりが来たとしたら、さあ、あなたはどうする?
 

そして実際、死に終わりが来たのである。
 二千年前、イスラエルはエルサレムにおいて、貧しい大工の倅が十字架刑に処せられた。
 悲しみにくれる弟子達、婦人達にビックリ仰天(あまりに驚いた出来事なので、思わず天を仰ぐさま)なニュースが飛び込んだ。
 

その日は週の初めの日。
 二人、三人の婦人達は朝暗いうちに家を出て、イエスの死体に香油を塗るため、墓に辿り着いた。
そこで聞かされたことは、そのことによって、以後の人類の歴史が塗り替えられたと言えるほどの出来事であった。
それは、イエスが死からよみがえられたからであった。
 

 神は人にいのちを与えられた。
そして人に死を備えられた。
 生きるものはやがて必ず死ぬ。
だが人間には、備えられたもう一つの死があった。
それは肉体の死と別に、霊性の死であった。
エデンの園で、人は霊的ないのちを持っていたが、間もなくそのいのち失うことになった。
 

 霊性の死は永遠に創造主との断絶をもたらした。
このことは人にとって実に不幸なことであったが、それ以上に創造主にとって辛く悲しいものであった。
 故に、創世記の初めから、神はやがて霊性の死から人類を解き放つ、メシヤの到来を約束されている。
 

 人類にとって絶対に脱出出来ないと思われた死の縄目は、ナザレ村の貧しい大工の倅によって解き放たれたのである。
それは創造主である神がイエスをよみがえらせたからである。
 先ず、大工の倅が誕生した秘話に遡らねばならない。
 

 罪の棘は死である。
 罪は必ず死をもたらす。
しかし、神の罪に対する怒りの剣を一手に引き受けられる存在があるとしたら、どうだろう。
 死はその瞬間に力を失う。
ナザレの村のイエスが、死という鎖に終わりの楔を打ち込んだのである。
 

イエスはよみがえられた!
この出来事だけで、新約聖書は世界に広まった。
 世界にキリストの教会堂が建ち、クリスチャンがいる。
 何故か?それは神がイエをよみがえらせた!・・からである。
 他に理由など無い。
 聖書トータルの約束、数千年も前に語られた約束は、決して賞味期限切れになることなく、の支配という足下で熟成し続け、この世の道理と墓石を打ち破った。
 

 私達キリスト者において、既に悪魔の力もサタンの力も及ばない。
 唯一、あるとすれば私達の内なる自我であろうか?
つまり既に敵は外ではなく、我が内にのみある、と言えないだろうか。
だが、覚えよ、私達の内には神の御霊、聖霊がおられることを。
サタンの影に怯えてはならない。
 彼は既にゾンビ、抜け殻でしかないのだから。
 

 第一コリント15:55
「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」
 

あなたにもこのことを、自らの告白として魂に刻んで欲しい。
それはイエスを心にお迎えすることから始まる。
それがすべての始まりであるから。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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