■ 執り成し / 創世記18:16~23 (2011-05-08)

「執り成し」クリスチャンになって、この言葉の意味が身近になった。 本来は相手に対し、若しくは二者間を取り持つ、取り計らうことである。 執り成しとは誰かのためだけでなく、自分のためにもある、と思う。 これは面白いことである。神さまの前に、自分の赦しを願い出ることが出来るのだから。 クリスチャンとは何と恵まれた立場なのだろうと思う。

私達は祈りを通して執り成すことが圧倒的に多い。 祈りはキリスト者に与えられた素晴らしい行動である。 「祈ることしか出来なくて、本当にすみません。」などと、仮にも言ってはならない。 各、言う私もついつい、そう言ってしまった過去が少なくないから情けない限りである。 誰かのために、何かのために祈ることが出来るのは、実に大きな恵みであり、祝福なのだ。 何しろ、祈るお相手は天の父なる神、唯一生きておられる神なのだから。 「そう思いませんか?」とあなたに問いたいのだが・・・

祈りは短い、長い、形容詞、美辞麗句、目を瞑る瞑らない等々、全く関係ないと言いたい。 祈りはあなたの魂からのものである。(おざなり、形だけの場合が少なからずある) 祈りは真剣なのである。 頭で言葉を選ぶのではない。(内なる聖霊にまかせよ) 目の前におられる主に向かっているのだ。 当然、人間に聞かせているのでもない。(人の耳を気にするから、美辞麗句、形容詞が気になる)

主と御使いがソドムとゴモラの町を滅ぼしに行かれる場面がある。 それらの町は性的な堕落で極まっていた。 だがアブラハムにとっては見過ごしに出来ない思いがあった。 甥のロトと家族がそこにいる。 何はともあれ、大勢の民が皆殺しにされることは避けたかった。 幾ら悪い町々でも、すべての住民が悪い筈がない、そう思ったからである。 していることは確かに悪い。だが・・・、という思いが強く彼を動かした。

町に向かう主の一行を追って、アブラハムは必死に食らいついて願った。

創世記18章 アブラハムは近づいて申し上げた。『あなたは本当に、正しい者を、悪い者と一緒に滅ぼし尽くされるのですか。 もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。本当に滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。』 主は言われた。「滅ぼすまい、その50人のために。」

このやり取りは暫く続いた。 50人は40人、そして30人、20人・・・ 主は言われた「滅ぼすまい、その20人のために」 彼は更に続けた。『主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。もしやそこに十人見つかるかもしれません。』すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。その十人のために。」

アブラハムは諦めなかった。 諦められなかったのである。 これが「執り成し」なのだと思う。 我が身のためでなく、民の、しかも仮に行いの悪い者達のためであっても。

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