■ 奇跡の子は当然の如くに生まれた / 創世記21:1~13 (2011-05-29)

≪主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。 サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。≫創世記21:1~2

サラが身籠り、そして男の子を生んだ! 年老いて子供を埋めない女性だったサラ。妊娠する可能性無きサラ。 だが、神は約束されたとおり、子供を授けた。 これは実に大変なことである。 現代、関西弁に言い換えると「ありえへんでぇ!」。 思えばイエスのご降誕も不思議極まりない。処女から子供が生まれた。 それでも私達は神を信じる。 否、それだから、信じるのである。 つまり、クリスチャンは「ありえへん世界を信じる人たち」とさえ言える。

さも当然の如くに聖書は語るが、一番驚いたのは後世のクリスチャンではなく、当のサラだった。 彼女は御使いの言葉を聞いて笑った。 アブラハムも笑った。 「100歳の私に子供を生ませられようか・・。サラも年老いてとても生める身体ではない。」 二人とも鼻先で笑ったであろう。 それでも主はこう告げられた。 「来年の今頃、あなたは男の子を産んでいる。その名をイサクと付けなさい。」

当時、妊娠できない女性は、出来ないこと自体に汚名を着せられ、神の祝福を受けない女と考えられた。 日々、彼女達は他人の冷ややかな目と口に傷ついたであったろう。 故に年老いても子供のいないサラは何とか母になりたい一心で、自分の奴隷女ハガルを夫に与え、自らが母となる道を選んだのである。

想像するところ、サラは曾祖母位に考えられる。 そして人生で初めて、サラは心から笑ったであろう。 幸せを噛み締めたであろう。 女であること以上に、妻であること以上に、母になることこそサラの夢だったのだから。

だが、サラの驚き以上に私は大きな世界を想う。 マタイの福音書の一番初めにこう書いてある。 「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。 アブラハムにイサクが生まれ・・・」とある。 つまり、単に子供が生まれたというだけの次元ではなく、生まれることを当然の如く、神は考えておられたのである。 生まれなければならなかったのである。 それは数千年後に、この世に生まれるメシヤの系図の始まりがアブラハムの子に象徴されていたからである。 ありえへん状況は、当たり前のことであった。

榎本保朗先生が仰っている。 人生には二つの「しかし」があり、私達キリスト者は常に何れかの「しかし」を選択している。 一つ目の「しかし」、 この世に生きていると、聖書の言葉は次元が違うかのように高くそびえているよう感じる。 従うこと、実行することが難しく思える。 しかし!聖書の言葉、神のご命令と信じるから、前を向いて御言葉に従おう。

二つ目の「しかし」、 確かに聖書の言うことは正しい。理に適っている。 しかし、この世では実践しようにも他者の目と口がある。 所詮、私には無理なこと。そして諦める。

聖書の生き方は人間にとって理想的である。 道理に適っている。 間違い無いのである。 それなのに、そう生きられないのは、人間が「反聖書的」世の中を造り、勝手な神々を都合よく配置し、気ままな人間世界にしたからである。 自己中心だけが世の常となった。 人間中心と神中心に合致点などない。 しかし、神は人間世界にその一人子を遣わされた。 しかも、殺されることを目的にして。 ただ人間の救いのためだけに。

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